内田樹「街場のメディア論」を読む
このブログにお付き合いくださる方は私の内田樹の書いた物好きをご存じかと思います。最近本屋にいってもピンとくる本がなかったのですが、ふとした時に2冊購入。閉店間際、というのが私の決断力を補ったのかも。1冊は田原総一郎監修、勝間和代と堀江貴文対談という(笑)こちらの感想はまた今度。もうひとつが「街場のメディア論」。前に「街場のアメリカ論」を読んで、その感想をブログにアップしたような、していないような??メディア論は、私の大学時代の専攻であったりするのですが、あの頃のほうがいろいろまじめに考えていましたね。今は、悪く言えば経済合理性に負けている。良く言えば、経済合理性とバランスをとっている。バランスをとる、とか言っている時点で、学問的純粋さは無いのでした。メディアが形式をもって情報を垂れ流している事への危惧には激しく同意。職業がら、物を書く人たちのあまりの勉強しなさっぷりに驚くこともあり、個人の主張が無くても書けちゃうのよね~。だから知らなくても書ける。(だからトンチンカンな事を書いていても自分ではわからない。)相手のそういう態度を見越して情報を流すこともありますが、基本的にはせめて素人のにわか勉強の私よりは勉強してから記事書いておくれ…と思います。本棚の存在価値について、はとても納得。自分の本棚をしばし眺めて苦笑い。著作権に関するくだりも面白かった。著作権がいつ発生するか、というのはとても興味深い。確かに受け取った相手が「これにお返しをしないと命が奪われる」と思った瞬間にその物に価値が生まれる、という話はよく理解できる。合理的。でも、じゃぁ著作権を主張してネットに書物を公開することや、図書館に本を置くことに反対している著作権者の主張が論理の破たんをきたしているか、というとそれはちょっと難しいなぁ。ここのところは「そうそう。内田樹はすごいな」と思えなかった。現代の複雑な商取引ではあらかじめ価値を予測して取引しているわけですよね。有料の講演会とか、得られるであろう価値にお金を払っているわけです。書き物の価値も同じ読んだ後に得られるであろう価値にお金を払ってる。著作権、というのは本人やそのまわりにいる、読者じゃない人が読者の代わりに「価値はこれくらい」と概算して、これくらいの価値があるから払って、と言っていること。で、納得できたら払う。だと考えると、読者としてはそんなネットをひいても情報が集まらないような、図書館に行ってもみられないような、本屋でビニール梱包されて中が一頁もめくれないような本を書いている人の名前だけで、そんなお金は払えません、という選択をすることになる。神秘性から買ってみよう、という人もいるだろうけれど、結構な人が買わないんじゃないかな。でも、著作者は「こんな価値がある!」と主張しているし、それは現代社会の慣習からはなにも破たんしていないと思うんですよね。そういう「未来のことを決めて取引してもいいよ」という仕組みだし。こうやって書いてみて、さらに内田樹の主張が腑に落ちます。だから「自分で未来の価値を決めて主張するより、(先にタダでみせて相手がお金を払いたくなるのを)待ってたほうが得だよ」と言っているわけです。著作権保護をうたう著作者は「そんな悠長なこと言ってられるか!自分の書いた物は価値があるんだから待ってられるか―。」と言っているわけですね。こればかりは、どちらが正しい、ではなくて著者がどちらを選択するか、という問題だと思います。こうやって私が書いている駄文は、内田さん流に言うとこの時点では価値がないのです。これを読んで「ふむふむ。なんかいいこと聞いた。得したからこれを誰からに教えてあげよう」とか思った段階で著作権が発生する、というわけでそんな日は来るかわからないからこのブログは無料で閲覧できるのです。こんなに熱く書きましたが、面白かったのは街場のアメリカ論かな。街場のメディア論価格:777円(税込、送料別)街場のアメリカ論価格:1,680円(税込、送料別)街場の教育論価格:1,680円(税込、送料別)街場の中国論価格:1,680円(税込、送料別)