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名古屋大学、男女共同参画、指定教科書『ジェンダーを科学する』は異常だ
全学教養科目「女と男を科学する」の教科書『ジェンダーを科学する』は、ジェンダーフリー思想そのものだ。このような本が、教科書として指定されていることは由々しき事である。 ジェンダーを科学する 副題:男女共同参画社会を実現するために 松本伊瑳子・金井篤子編、ナカニシヤ出版 (名古屋大学の様々な分野の教授 助教授13名の共同執筆2004初版) この本には、次のような記述があるが、社会の常識から逸脱している特殊な考え(思想)であり、当然、国又は県の進める男女共同参画の考えとも相容れない。 ページi、はじめに ―近代資本主義社会が成立するにしたがって、女性たちは家庭の中の囲い込まれる生活を半ば強制されてきた。家事・育児という、いわゆる人間の「再生産」(何といういやな表現だろう)に携わる仕事は、もちろん人間生活にとって大変重要な部分を占めている。しかし、主婦専業は女性にとって、男性に依存する不安定な人生であることも事実であり、多くの女性たちは男性のように社会に出て自己実現し、自立・自律的生活を送りたいと願ってきた。― ページ25、第I部 ジェンダー論入門、2.3.「近代家族」と「母性」 ―このように日本であれ欧米であれ、近代資本主義諸国において、性別役割分担の明確な<近代家族>を維持していく上で、<母性>は不可欠の要素であった。 <母性>は社会維持に必要な制度であり、近代資本主義社会というイデオロギーの要請上できあがったものであった。これは女性に結婚を強制し、女性を母性の中に閉じ込め囲い込む社会的装置、<強制的異性愛>でもある。― ページ32、第I部 ジェンダー論入門、2.6.ジェンダー ―性差別は、身体差(セックス)に基づくものだとされてきたが、女性たちはそれが社会的・文化的に構築されてきたものだとして、これをジェンダーと呼び、生物学的性差と区別した。女といってもその階級や性指向(異性愛か同性愛か両性愛かということ)、あるいは経済的利害がブルジョアの妻か労働者の妻かで異なるように、<女>とは自然なカテゴリーとして一括りに理解され得るものではない。ジェンダーはある一定の政治・経済システムを作動させ維持させるための社会体制と密接にかかわっている。ジェンダーが、<社会的文化的に作られた性>であるとは、女性が一定の諸関係の下で、妻や奴隷や売春婦になる、あるいはジャンヌ・ダルクのように軍隊を率いることもあれば、戦争の犠牲者になることも意味している。― ページ35、第I部 ジェンダー論入門、2.7.男性学の誕生 ―<男らしさ> <女らしさ>の呪縛から両性を開放し、そのようなジェンダー規範を生み出す原因を探るのがジェンダー学であり、今では女性学・男性学も含め、男女両性の問題を考える幅広い学問の総称としてジェンダー学と呼ぶようになっている。ジェンダーフリーな社会・人間のあり方をめぐって、ジェンダー学はこれからも進化し続けることだろう。― ページ37、第I部 ジェンダー論入門、3.男女共同参画社会実現に向けて ―しかしこのような男女の抑圧装置としての社会体制(性別役割分業)や、社会規範(女らしさ・男らしさ)から自由になり、男女が個人の選択と責任において生きていけるようにしようという考え方にたどりついた。これが、ジェンダーフリーの考え方であり、性別に縛られることなく、各人の個性と能力が発揮できる男女共同参画社会を実現しようという動きが、体制側のレベルにおいてさえ出現する時代になった。― ページ63、第I部 ジェンダー論入門、4.3.性殖と性の権利 ―女性はいつでも喜んで子を産んできたわけではなく、子殺し、子捨て、堕胎、避妊等、生殖をコントロールしようとしてきた。― ページ64、第I部 ジェンダー論入門、4.3.性殖と性の権利、(2)避妊 ―日本における避妊は1950年代以降、戦前・戦中の不道徳で禁圧すべきものから、「文化国家」にふさわしい国民道徳へと転身した・ ページ87、第I部 ジェンダー論入門、5.5.クィア・ファミリーの可能性 ―では、実践においては、どのようなことが可能なのだろうか?ファミリー・ロマンスの解体という目下のもくろみに限っていえば、まずは家族制度の見直しが考えられるであろう。もちろんそこには戸籍や養子縁組、結婚制度の問題も含まれる。例を挙げれば、同性愛者のカップルの結婚を合法化するかどうか、同性愛者のカップルに子どもを養子縁組することを認めるかどうか、等といったことがらが、近い将来、日本でも問題になってくるだろう。同性愛者の築く家族は、父、母、子という神話化された家族形態をパロディー化し、同時に、家族というものがパフォーマティヴであるという事実を突きつけてくるだろう。父、母、子で成り立つ家庭を築くことは、必ずしも人間の使命ではなく、ましてや本能でもない。父、母、子の関係は、子供が生まれるときの遺伝子的結合を示しているにすぎない。― ページ88、第I部 ジェンダー論入門、5.5.クィア・ファミリーの可能性 ―以上のことがらを可能にするためには、法整備に加えて、ファミリー・ロマンスそのものに対する社会の考えを変化させなければならない。たとえば、不妊治療に励むカップルは、なぜ「血のつながった子ども」にこだわるのか?血縁関係が養子縁組よりも神話化されるのはなぜか?なぜ、子供を持つことが「幸福」であると考えられているのか?こうした疑問は、「幸福」とは何か、とう問いにつながるものである。そして、「幸福」とは多様化されるべきである、というのがその問いに対する私の答えである。子どもを産まないことや結婚しないことで得られる幸福が世の中に存在するということが社会全体として理解されれば、血縁関係重視のファミリー・ロマンスは自然とその効力を失っていくであろう。このようにして、父、母、子という位置関係に限定されない新たなる家族関係が創造されれば、それは、さしずめクィア・ファミリーということになるのだろうか。― お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2008.04.25 06:54:51
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