永禄11年浜松攻めの路永禄11年(1568年)12月 岡崎城を発った家康は 吉田城から北進 国境の峠を越えて 遠州に入る。井伊谷城、刑部城を攻略 三方ケ原を横切って 引馬の地に至り 城に入った。 07年9月15日 家康の軍旅の跡を車でたどってみた。 陣座峠を越えて遠州に入ったという。 吉田(豊橋)から最短距離は 新城富岡から北行する路だろう。 富岡交差点 ![]() 左から右へ 作手を発し富岡から宇利峠を経て三ケ日に至る三ケ日街道 手前から前方へは 豊橋から 和田辻、富岡をへて 黄楊野、山吉田へ抜ける山手道。 山手道を北上する。 宇利城祉 ![]() 富岡の交差点から2km進むと 宇利城祉の看板が出ている。 寄り道して左折800mほどで見えてくる小山が 宇利城祉。 亨禄3年(1530年) 家康の祖父 清康が 攻め落とした城である。 陣座峠 ![]() 富幕山 ![]() 陣座峠は 富幕山(とんまくやま)563mの鞍部。 今でも 愛知・静岡の県境である。 家康は この峠から麓に下り 方広寺に立ち寄った。 方広寺 ![]() ![]() 臨済宗方広寺派本山。 至徳元年(西暦1384年、南朝元中元年)、後醍醐天皇の皇子無文元選禅師によって開かれた古刹。 地元では 奥山半僧坊と呼ばれ信仰されている。 広い寺域に 由緒ある建物が建ち並び じっくり拝観するには3時間以上必用。 ここで 家康は 宿泊したのだろう。 井伊谷城祉 ![]() ![]() 井伊谷は 後に彦根藩主となる直政の父 直親の時までは 今川方の井伊家の領地であった。 直親は 讒言により 今川氏真により討たれ この時 子万千代(直政)は参州へ漂泊していた。 井伊谷城は 菅沼定盈の意見で 井伊谷3人衆を味方に引きいれており 難なく乗っ取った。 用意周到である。 後醍醐帝の子 宗良親王を祭る官幣中社井伊谷宮 ![]() ![]() 井伊谷城には 御所丸という郭があったが これは 後醍醐天皇の子 宗良親王を この地に迎えた時のものだという。 宗良親王はこの地で亡くなり その墓がある。 墓の前方に 官幣中社 井伊谷宮が鎮座している。明治5年創建。 龍潭寺 ![]() 井伊谷宮の すぐ側には 井伊家菩提寺 龍潭寺がある。 庭園が見事だというが 拝観は またの機会とした。 (1週間後の9月23日 再訪) ![]() 刑部城祉 ![]() 井伊谷を ほんの2里ばかり南下 都田川を越えると 刑部城祉がある。 城跡には 金山神社が建っている。 この城も 菅沼定盈にまかせて 家康は 三方ヶ原を横切り 浜松城の東 橋和の妙恩寺に着陣した。 ここで 引馬城を預かる江馬氏からの開城の知らせを待ち 天竜川を越える予定だったのだ。 しかし江馬氏内部の争いにより城内が混乱したため 家康は 城に入ることになる。 浜松城 ![]() 家康の入った城は 現在の浜松城の位置ではなく 元城町というところで東照宮が建っているという。 若き日の徳川家康公 ![]() 家康は このあと 天竜川をこえ 掛川城下まで 軍を進めている。 家康年表(3)へ戻る 07年9月16日作成 ジャンル別一覧
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