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2024.05.11
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カテゴリ:カメラとレンズ
昨年の5月に写真家の飯田鐵さんが亡くなった事を知ったのは、
何ヶ月も経過した寒い日の事だった。

飯田さんとは、もう30年以上の付き合いがあって、
取っ掛かりは、あるカメラクラブの合同写真展で、
冬の曇った富山の漁港でビオゴン21mmを付けたキエフ4Aで撮った、
くすんだ青い色をした古い小型トラックの助手席にいた犬の写真だった。

以来、変な機材と変なレンズを使う変わり者として、
飯田さんの頭のメモリーに格納されたらしく、
以来、カメラクラブの例会や写真展などで、
東京へ行く度に飲みに誘われるようになった。

お蔭さまで東京や神奈川のカメラや写真関係の知り合いも出来て、
皆で一緒にどこかへ出掛けたり、
諏訪の方にも仲間や御夫婦で奥さんの実家がある下呂へ行く途中で、
立ち寄って頂いてたりしていたのだ。


カメラクラブから離れても、
春になると立川の国立天文台へ花見に誘われたり、
写真展があると必ず案内状を頂いていたので、
いそいそと東京へ出掛けていき、
カメラ屋さん巡りとコダクロームのまとめ買いをして、
後は飯を食ったり本屋さんに寄ったりしてから写真展に行き、
夕方には会場にいた飯田さんの仲間と居酒屋に潜り込むのが常だった。

写真展には手土産で諏訪の地酒とか、
地元の本屋さんで売っていた、
諏訪市在住の中村文洋さんのサイン本を持って行ったけど、
お酒は直ちに開栓されて訪れる人にも勧めて会場で飲み切っていた。

一度、写真展に訪れた時に飯田さんが不在で、
持っていた手土産を会場に置いていくのでと電話を差し上げたら、
”チョッと、まってて”と、わざわざ自宅から来て頂いたのには恐縮した。
もちろん、後は居酒屋で一杯である。


写真展会場での飯田さんは茶目っ気たっぷりで、
CDラジカセで昭和歌謡なんか流しながら写真の説明をしたりしていた。


割と最後の方の案内状。
若い人との合同展は他にもあったけど、
コロナ禍の最中は飯田さんに何かあったらマズいと、
上京を遠慮をしていたのが悔やまれる。


著書も幾つかあってカメラやレンズのノウハウ本も独特の視点興味深い。

2003年刊”街区の眺め”は飯田さんの視神経の延長だ。
同名の写真展も思い出深いものの一つになった。
下の2007年刊”まちの呼吸”は、
飯田さんの写真と寺田さんの文章で川口の追憶をなぞったもの。


時々は、雑誌の特集で使いたいからと連絡が来て手持ちの機材を送ったり、
逆に、”こんなのあるけど要る?”と格安で譲って頂いたりしていたけど、
中でも一番思い出深いのが、
希少なレンズでもありふれたレンズでも写真の本質は同じという、
当たり前のことを再認識させてくれる、
飯田さんの好著である”レンズ汎神論”の中で”空飛ぶレンズ”に出てくる、
コダックのアエロ(エアロ)スティグマート12インチf5だ。

この40年代前半に作られ大戦中に使われたと思しきレンズは、
アメリカの通販で見つけたもので、
つい安くて買ったものの大判には無縁だったので、
いつもお世話になっていて、
飛行機も大好きな飯田さんにプレゼントしたつもりだった。

飯田さんは2.5kgもある軍事用のレンズを、
結構苦労して大変だったと言いながらも写真にしてくれた。
やがて”レンズ汎神論”が出版される頃にレンズは家に出戻ってきたのだけど、
その理由は”重くて邪魔”…。


アメリカのレシプロ軍用機に抱かれて、
恐らくはフェアチャイルド製の航空カメラに取り付けられていた、
アエロスティグマートが現役時代に空から眺めていたものは何だったのだろうか。

それはヨーロッパかもしれないし、
太平洋の島々とか日本本土の東京や、
ひょっとしたら広島か長崎だったかもしれない。

一本のレンズが何を見てきたかは、
実際に運用していた人間しか分からないし実際に目には見えないけれども、
古いレンズのエレメント内部にはそれが何層も堆積しているような気がする。

殆ど80年前に戦争へ駆り出されていたアエロスティグマートだって、
それから殆ど半世紀を経てから、
日本で敵軍の飛行艇のディテールを地上から眺めるとは思わなかっただろう。


飯田さんの写真展で購入したカメラの写真がある。

それはポラロイドによる一点物の写真展で、
色んなカメラがあって悩んだのだけど、
最後は入手不可能なカメラという事と、
件のアエロスティグマート繋がりで、
エクターのセットを選んだ。


飯田さんとの個人的なやり取りは殆ど手紙だった。

写真展以外でも私信をやり取りしていて、
お互いに最近こんなレンズ買ったとか、
今はこんなカメラを使っているとか、
映画や飛行機とかクルマに至る他愛のないものだけど、
時々は、着いたころに飯田さんからも手紙が届いて、
同時期に行き違いというのも何回かあった。

新宿や銀座のカメラ屋さんでも時々お会いして、
最後はそのまま居酒屋へというのが常だった。

あて名書きのお名前には素気無い”鉄”さんよりも、
旧字の”鐵”さんの方が似合っているような気がして、
必ず”飯田 鐵 様”と書いていた。


個人的に写真は銀塩がメインなので、
今時の写真/カメラ雑誌は買わないし、
敢えてネットで検索をした事も無く、
暫く写真展の案内が途切れても、
お仕事が忙しいのか新作の準備でもしているのかと思ったくらいで、
そろそろコロナ騒ぎも落ち着いてきたので東京へ行こうと思い、
飯田さんの写真展を検索して初めて訃報を知った次第。

飯田さんはカメラや写真の師匠であり、
色んな事を教わった日本でも著名な写真家の一人であり、
当然、尊敬すべき人生の先輩ではあるけど、
時には友人でもあり親戚の兄貴みたいな人だった。

今でも飯田さんを思い起こすと、
自分の心の中にあるずっと変わらない温もりを感じる。

それはそれで一つの供養なのだろうけど、
一周忌には重くて邪魔なレンズではなく、
ご家族にも余り負担にならないと思って、
お線香をゴリ押ししようかと考えている。





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最終更新日  2024.05.11 19:30:13
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