カテゴリ:旅
やっとこさ、ネット開通。さすがはBフレッツ。。。速いような気がする。
さらにノーパソはヒューレットパッカーのビスタ搭載。 ビスタは凄い。こんなハイテクなパソコンは見たことがない。 とにもかくにも、松山のおける私の命綱である。 さて、この前(2008年4月2日)の南予旅日記を更新しようか・・・・ ★4月2日 総裁という人から一枚だけ青春18きっぷを買ったワケではあるが、使い道がない。まーせっかくだから南予(愛媛県南部)に行こうか・・・というわけで、日帰り旅行のはじまりである。 まず始発に間に合わなかった。仕方がないので3本遅いやつで向かう。予讃本線は長大な幹線ではあるが、松山より先は単線のローカルといった感じである。行きは内子経由で。 ↑予讃本線伊予大洲駅(愛媛県大洲市) 大洲のフジグランで秋田銘酒「北鹿」を発見。なんでこんなところで。。。。 大洲で乗り換えて、ぐだぐだ宇和島へ向かう。伊予吉田の付近で海が見えた。 ↑辰野川の桜(愛媛県宇和島市) 宇和島。人口8万人規模の愛媛県南予地方の中心都市である。江戸時代には宇和島藩が置かれた。仙台藩伊達家の伊達秀宗が入部した。秀宗は政宗の庶長にあたる。 ↑宇和島城石垣 ↑宇和島城天守閣 ↑遠く宇和海 幕末の宇和島藩主は伊達宗城(だてむねなり)であった。宗城は殖産興業や専売制など、藩政改革を行った。奥州水沢の蘭学者、高野長英をかくまい、長州からは村田蔵六(後の大村益次郎)を招いて軍政の近代化を推し進めた。また越前の松平春嶽、土佐の山内容堂、薩摩の島津斉彬とともに「幕末の四賢候」と呼ばれ小藩でありながらも雄藩としての地位を確立した。 しかしながら、宇和島藩の維新に対する功績は大きさの割には、宇和島藩は冷遇されたようである。本家が会津藩を中心とする奥羽越列藩同盟の中心藩「仙台藩」であったためとも言われているが、伊達宗城という人物の思想が薩長を中心とする新政府ではなく、朝廷と幕府主導による「公武合体」政権の樹立を目指したためとも言われている。 ↑高野長英居住地跡 高野長英はモリソン号事件の幕府の対応を批判した「戊戌夢物語」を著したことにより幕府から捕縛された。(蛮社の獄)しかし、その後、脱獄。宇和島藩に庇護され、宇和島藩の近代化に大きく貢献した。その後、江戸に戻り、再び捕らえられ護送中に死亡した。 ↑児島惟謙先生銅像 また、宇和島は大津事件で「司法権の独立」を守った児島惟謙の出身地でもある。「民法典論争」を起こした穂積八束。さらには現行の民法を成立させた、八束の兄にあたる穂積陳重も宇和島出身である。そして、穂積陳重に関しては次のようなエピソードがある。 ↑穂積橋 穂積陳重の死後、宇和島で銅像を作るという話が持ち上がったが、遺族がこれを承諾しなかった。生前、穂積陳重は次のように語っていたそうだ。 「老生は銅像にて仰がるるより万人の渡らるる橋となりたし」 そして穂積隆重は「橋」になった。現在、辰野川に架かるこの橋は「穂積橋」と呼ばれている。 ↑穂積橋の上から・・・辰野川 さて宇和島脱出。お土産に「鯛のさつま汁」を買う。 ↑八幡浜駅 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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