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2012.12.24
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フヨウ(アオイ科)だと思う。空が、ほら、青いね!

自然数の集合を考える。二つの要素を選んで、足し算をしても、掛け算をしても、その結果はちゃんと自然数だ。これを、加法と乗法については「閉じている」という。
ところが引き算をしてみると、3-3=0、3-5=-2、だから、その結果は自然数をはみ出してしまっている。減法についても「閉じている」ようにしたければ、0と、マイナスのついた自然数(!)を付け加えなければならない。つまり整数の集合でなくてはならない。
割り算はどうか?、2÷3の結果はもちろん整数ではない。では、除法についても「閉じている」ためには、有理数でなければならなかった。
ここまでは、たとえ話。集合には常に、「外側」があり、「内側」だけでうまくいかなければ、「外側」から取り込んで、拡張することが出来るということ。


水面波の干渉実験。
2定点からの距離の差が一定である点の軌跡は、垂直二等分線、または、双曲線である。
水面上の2点に同位相の波源があるとき、それら2点からの距離が、波長の整数倍に当たる点では、重ね合わせの原理に従って、振動が増幅され、半波長の奇数倍に当たる点では­、反対に、振動が減殺される。たとえば増幅される点を連ねた軌跡は、したがって双曲線となる。それが波源の間に何本生ずるかは、今度は、三角形の成立条件、「二辺の差は他­の一辺より短い」によって規制される、・・・、とかいうことを、思い出したりさせられるね!
今日は結構風がきつい。大洋に「浮かぶ」島なんだから、それも当然。
ダイサギ(サギ科)。

すべての言葉、を含む集合があったとする。私たちは、そこからいくつかの要素を拾い集めて文を作り、喋ったり考えたりする。
たとえば「○○は△△だ」という文は、それぞれ○○、△△のところに「代入」すべき言葉のリスト(これがparadigmパラダイム!)と、○○と△△を結びつける規則(syntax文法)から出来ている。言葉をつなぎ合わせる規則のほうは、ちょうど○○、と△△のところに、「独立変数」を入力すればしかるべき値が得られるのだから、F(x,y)みたいな関数記号で表してもよい。
だから、私たちが言葉を運用できるためには、代入される個々の言葉だけでなく、ありとあらゆる文の作り方に対応する、すべてのつなぎ合わせ規則、関数も、集合の中に含めておかなければならないね。材料と一緒にレシピが、製品と取扱説明書が、一緒に梱包されている、みたいな感じ。

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おなじみ(!)ハイビスカス(仏桑華)(アオイ科)。

ところで私たちは、文の「正しさ」を、どうやって判断しているのだろう?
ここでの「正しさ」は、経験に合致している、って言う意味ではない。私たちの言葉のとても不思議なところは、・・・、私たちは、嘘をつくことが出来るし、ありえない事柄について考えることも出来る、ってことだ。出来上がった文が、あくまでも「論理的」に正しいかどうか?、規則にしたがって、正しく組み立てられたかどうかの判断方法も、やはり、この「集合」の中に入れておかなければならない。材料とレシピと、レシピ通りにちゃんと作れたかどうかの判定方法まで(!)同梱されている?


「擬春・春もどき」。
12月の初旬か、中頃、春の花たちが、一斉に、・・・、これは必ずしも季節を「間違えた」わけでもなさそうに、開花する日がある。バード・ウォッチングや、野草観察(笑)­をはじめて、5年くらいか?、そんなことも知るようになった。
それを私は、「擬春・春もどき」と呼ぶことにした。
そんな一日。電線上、ヒヨドリ(ヒヨドリ科)。

何でも聞きたい盛りの子供が、お母さんを質問攻めにして困らせる。「お空は何で青いの?」とか何とか・・・。空気分子による可視光の散乱は、波長の4乗に反比例するレーリー散乱で、青い光がよりよく散乱されるから、太陽の方向からではな・い・方向からは、青い光がやってくるように見える、んだって!
そんな説明をするお母さんはめったにいないだろうけれど(笑)、でも、では「どうして波長の4乗に比例するの?」、あるいは「どうして、青い光は波長が短いの?」、・・・、と、問は「無限後退」する。
「説明」というものが、所詮は、言葉の「言い換え」であるのだから、有限個の語彙の「内部」では、かならず、循環する。どこかで、答えられない地点に到達する。「うるさいわね!、青いものは青いのっ!」と、キレてしまう地点がある。

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落花した、オオハマボウ(アオイ科)。方言名「ゆうな」。海岸植物。だから、一番上に掲げたフヨウの方は、「山ゆうな」と呼ばれるそうな。

ここでも、すべての言葉の集合に、文を組み立てるために必要なつなぎ合わせ規則を、あ、あれも必要、これも必要、と、「外部」から次々に取り込んで付け加えて、その集合はどんどん大きくなり、どんどん充実したものになるのだろうけれど、・・・、やはり「無限後退」が生じて、どこかで、もうこれ以上は、無理、これより「外部」は、もう、ない、という地点に辿り着く。
生きている私たちは、自分の「死」について、うまく考えることが出来ない。生きている身体の上に、生きているあいだだけ、「意識」なんてものが乗っかっているのだろうから、自分が生きているという事実そのものも、その「否定」であるところの「死」も、「外部」なのだから、それについて「語る」ことは、できないんだね。同様に、「集合」の内部に、その集合についての説明を書き込むことも、出来ない。


Golden Slumber、黄金の、「まどろみ」。

組み立てられた文の「正しさ」を保証する「論理」、たとえば「AならばBである。ところで、Aである。したがってBである。」みたいな規則は、もはや「どうしてそれが正しいのか?」を問うことは出来ないものなのだ。それはすでに「外部」だからだ。
私たちは、自分たちの運用している言語の「正しさ」を、まったく自分たちでは説明できない、何の理由もなくただそこにある、・・・、こういうのを、「超越論的transcendental」という!、・・・、「外部」にあるものに依存している!
ウィトゲンシュタインが、「語りえぬもの」と呼んだのは、どうやら、そういうことであるらしいのだ。
昨日、鬼界彰夫「ウィトゲンシュタインはこう考えた」(講談社現代新書)を読んでいて、まるで「天啓」のように、十年来の疑問が解けたようなさわやかな気分を味わったのだが、・・・、こうして自分で文章にしてみると、なんだか、平凡な、つまらない発見に過ぎないような気もしてきた。

我々が何を考えることができないのかを、我々は考えることができない。従って我々が何を考えることができないのかを、我々は語ることもできない。「論理哲学論考」

世界の出来事を私の意志によって左右するのは不可能であり、私は完全に無力である。
・・・
世界は私の意志から独立である。「草稿1914-1916」





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Last updated  2013.01.09 13:54:02



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