★RYUの事・・・『9』
平成15年、2月中旬・・・RYUは脊損センターへ リハビリ入院した。
部屋は2人部屋で、隣のベットはRYUと同じ年の17歳のS君だった。
この子はバイク事故で頚損だった。
RYUと違い体の線は細かったがジャニーズ系のとっても ハンサムボーイ。
明るくて、礼儀正しい男の子だ。
前の病院では「友達できたよ」と言ってもかなり年上の方ばかりだったがここではもう1人同じ
17歳の男の子もいたし中学生の子もいた。
同じ年で同じ境遇の友達を持てた事はRYUにとって、とても良かった。
RYUはこの病院では「軽い方」だった。
麻痺ではない為 脊損や頚損の方のように体温調整が出来ないという事もなかったし、この頃は体力的にも
かなり回復していたので1人で車イスに乗ってリハ室へもPC室へも行けた。
リハ担当の先生は前の病院と違い 訓練に対しては厳しかったがRYUにとってはちょうどよかった。
サボる事が出来ないから(笑)
病院食も前とは違い食べてくれるし、嫌々ながらもリハに組み込まれているPCもやり始めた。
隣のS君やK君が受けているPTといわれる作業療法はRYUは受けなくて良かった。
OTと言われる下肢のリハビリだけだったので逆に退屈な時間が多かったようだ。
ここには1階から2階まで長いスロープがあってこれを車イスで上ったり下りたりするのも訓練のひとつだ。
この訓練のおかげでRYUの上肢はとてもたくましくなった。
握力もついたし何より食べるようになったので体重も増え ベットなどに座っていると体格が良すぎて
入院患者には見られない。
よく同じ車イスの年配の方に「お前は何で入院しとるんか~」とからかわれていた。
足のリハビリはかなりきつかったようだ。
ベットのような機械に体を固定させてそれが徐々に立てられて行く。
左右の足の長さが違う為右足一本で体を支えなければいけない。
初めは5分から・・時間は少しづつ延ばされていった。
こ
れがRYUにとっては苦痛だったようだ。
アキレスが固まってしまっている為つま先で立つ型になる。
でも機械によってとはいえ 事後後初めてRYUの立った姿を見た時私はとても感激した。
身長もとても伸びている。本当に嬉しかった。
リハ担当の先生と入院後しばらくして訓練計画のお話をしたが先生は「前の病院は一体どんな
リハをしていたのか」と怒っておられた。
「膝も右ひじも アキレスもこんな風に固まらせない為にリハビリをするのにひど過ぎる」と・・・
私も前の病院のリハ担当の先生に対しては「甘すぎる」と思っていた。
RYUが「今日は頭が痛い」「調子が悪い」と言うと簡単に休ませるし RYUが痛がると
「痛い?大丈夫?これくらいならいける?」とRYUに合わせたリハをしていた。
リハビリは本人にとってとても苦痛が伴う事はわかるが それを耐えて頑張らないと運動機能がどんどん駄目になる。
何度も先生にお願いした。
「RYUに合わせず厳しくリハをして下さい。それが本人の為です」
しかしその先生は「でもRYU君は痛がりますから・・」と一向にやり方を変えなかった。
当然優しくて甘いその先生の事はRYUは好きだった。
リハ・・というよりプロレスの話をしたり好きな歌手の話をしたり・・
そういうフォローもありがたいとは思ったがリハビリは進まなかった。
この事を脊損センターのリハの先生に告げると「はぁ~」とため息をついておられた。
「それじゃあこうなっても仕方ないな」と・・・
少し長い時間機械を使って立っていられる様になると 今度は2本のポールにつかまって右足一本での歩行訓練が始まった。
最初は両手で全体重を支えるだけでいっぱいいっぱいだったが 右足を少しずつ前にずらせるようになる。
入院から一ヶ月もするとRYUは「毎日来なくていいよ」と言うようになった。
「病院食も食べれるし洗濯も病院のコインランドリーで自分で出来る。でもお小遣いだけちょっと置いていってね~」
人見知りはするが、慣れると社交的なRYUはいろんな年代の人と友達になり訓練以外は
いつも喫煙室でおしゃべりしていた。
お小遣いは週2回移動図書館が来てくれて漫画の本が借りられるからだ。
取り合えず様子見に一日置きに行くようにしたがRYUは「そんなに来なくていいって言ったやん。
ここは遠くから入院に来てる人が多いから親がいつもいつも来てる人は少ないし恥ずかしい」
母親が来て何が恥ずかしいのよ~と思ったがその成長が嬉しかった。