人は、自分自身のための「お金の思想」を持つべきだ。お金の思想を持つ、とは、自分にとってお金がどのようなものであるかを言葉で定義し、且つどう扱うのかを具体的に決めておくことだ。
お金は便利なものだし、だいたいはある方がいいものなのだが、お金の思想を明確に持っていないと、人はお金に苦しめられることがある。
お金のいいところは、おおむね何にでも変えられる自由度がある価値を蓄えることができることだが、この「何にでも変えられる」というところが、なかなか曲者だ。
たとえば、他人よりも収入の多い人は、自分よりも収入の少ない人に対して優越感を持ちがちだ。しかし、こうした優越感を生む精神は、自分よりもさらに収入の多い人を身近に知ったときに劣等感を生むことになる。ストレートに劣等感を持つのは誰しも嫌だから、「私はそこまで稼がなくてもいい」とか、「ああまでして稼ぎたいとは思わない」とか、現実認識を歪めながら自分を慰めることになるので、有害に働くことがある。
お金を持っている人が偉いわけではないと建前では思っていても、他人のお金は羨ましいことが多いし、「お金をより多く稼いでいるということは、他人により高く評価されているということだ」という命題に、心底納得できるレベルで反論するのは難しい。お金は、人の価値観の中に勝手に忍び込む性質がある。
お金の思想を定義する上で大切なのは、自分にとってお金がどれくらい大切か、お金のためならどこまで我慢や犠牲を払うか、他人のお金についてどう考えるか、といった、ある意味では下世話なテーマの具体的方針決定だ。抽象的で高邁なフレーズではない。
お金のためなら、何をどこまで犠牲にしてもいいと思うか、という問題は重要だが、なかなか方針が定まらないのが現実だ。
大まかに言って、お金と自由、およびお金と時間は、緩やかに交換可能だ。
自分の好きなことを仕事にできるのは自由の高度な実現だが、一般に、多くの人が、やりたいと思う仕事、格好のいい仕事、楽な仕事は、報酬が安いかその仕事に就くこと自体が難しい。反面、人が嫌がる仕事は、職を見つけやすいし、同程度の難しさの仕事に較べて報酬がいいことが多い。
個人の倫理との関係も難しい。法律に触れなくとも、他人を騙すようにしてお金を稼ぐのは気持ちのいいものではない。「どこまでならやるか」を決めておくことは重要だ。
お金と時間の関係も悩ましい。お金のために自分の時間をどのくらい犠牲にしてもいいかという程度の調節は、フリーランスで仕事をしている人がよく悩む問題だし、サラリーマンであっても岐路に立つことのある問題だ。もう少し頑張ると、もう少し稼げるだろうと思って、自分が自由な時間を減らして、ストレスをため込んだり、クリエイティブな仕事がしにくくなったり、果ては健康を害したりする場合がある。
お金の思想を適切に持つために大切なことは、お金を客観視できる余裕を、生活的にも知的にも持つことだ。そのためには、大切な人や物、楽しい事柄などをたくさん知っている方がいい。
こうしたものをよく知るためにもお金が必要だというのが一方の現実ではあるが、お金持ちの側から見ても、名誉、才能、恋人、友人、それにある種の経験など、お金だけでは手に入らないものが多々ある。何よりも、「時間」がなければ、お金も有効に使うことが難しい。
たぶん「時間」が大切で、自分にとってのお金の価値は、最終的には、「自分の時間」で測ることができるような気がするのだが、現実の生活上は、時間をお金に換算する方が何をしたらいいのかが分かりやすい。油断していると、価値観の中心に居座ってしまうところがお金の厄介なところだ。
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楽天証券経済研究所
客員研究員 山崎元
(楽天マネーニュース[株・投資]第69号 2010年2月26日発行より) ==========================================================