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リュンポリス

リュンポリス

第十六話:墓前にて

 総大将を失ったミニュアスの大軍勢は、あっと言う間に逃げおおせてしまった。口々に「逃げろ!」と言い合い、武器を捨て、狼狽えながら逃げていった。
 荒野に、再び静寂が訪れた。荒野の至る所には血痕や武器、鉄片があり、ヘラクレスとエルギノスが激突した跡が、大地に痛々しく刻まれていた。
 未だ消えぬアポロンの矢の炎に微かに照らされながら、ヘラクレスはゆっくりとエウリュトスのいる方へと歩を進めていた。その背後には、頭部を失ったエルギノスの死体が、力無く横たわっていた。
 ヘラクレスは何もない表情で、もはや動くことのないエウリュトスを見た。空洞となった腹部から流れ出た血液は、もう固まりかけていた。
 生気を失ったその顔からは、二度とあの朗らかな笑顔を見ることはできない。
 二度と、あの嗄れた声を聞くこともできない。
 そして、二度と彼に会うことも・・・。
 ヘラクレスの頬に、涙が流れた。こんなにも虚しい勝利は、初めてであった。
 
 テーバイ軍は、半数以上が戦死していた。あの大軍勢と戦って全滅しなかったのだから、賞賛を送るべきだろう。だが、ヘラクレスにそんな気力は残っていなかった。
 今、ヘラクレスは二つの神の武器を持っている。アポロンの弓矢と、アテナの剣だ。人間が神の武器を複数持つことは大変名誉なことだったが、それを喜ぶ気にもなれなかった。
 ヘラクレスはただ無気力に、エウリュトスの墓前に立っていた。
 エウリュトスの墓前には、ギリシャで最も美しい花と、彼が愛用していた鉄弓が添えられていた。爽やかな風がその花を撫で、微かに揺れた。
 ヘラクレスはその鉄弓を眺めながら、エウリュトスとの訓練の日々を思い出していた。
『素晴らしいよヘラクレス!君はまだ十七歳だと言うのに、私の腕すら超えている!百発百中とはこのことだ!さすがゼウスの息子だよ!』
 もう二度と、あの声を聞くことはないのだな・・・。
「ヘラクレス」
 エウリュトスの墓に、馬の蹄が大地を弾く音が近付いてきた。聞き覚えのある声と相まって、誰が近付いてくるのかすぐに分かった。
「ケイローン・・・」
 ヘラクレスは声のする方へ顔を向けた。そこには、悲しく顔を萎ませたケイローンが立っていた。急いでテーバイに駆けつけたのだろう。ケイローンの馬脚には、所々泥がこびり付いていた。
「弟子の訃報と聞き、急いで駆けつけた」
 ケイローンは、ヘラクレスからエウリュトスの墓へと視線を落とし、「良い弟子だった・・・」と呟いた。その声は、悲しみに打ち震えていた。
「弟子の死を見るのは、慣れている。皆、小生を置いて冥界へと旅立ってしまうのだ。慣れているはずなのに・・・なぜいつも、こんなにも悲しいのだ・・・」
 ケイローンの目から、涙が溢れ出た。それにつられて、ヘラクレスの目からも涙が溢れる。彼らの涙が、エウリュトスの鉄弓を僅かに濡らした。
「おっと、泣いているばかりではいかんな。弟子に、最後の孝行をしてやらんと」
 ケイローンは手の甲で涙を拭うと、一輪の花を取り出して弟子の墓へと添えた。そして手を組み、姿勢を低くして、エウリュトスが無事に楽園へと旅立てるように祈りを捧げ始めた。ケイローンの祈りの念は風に乗り、英雄の魂を楽園に運ぶ神でもあるヘルメスへと届くことだろう。その祈りはシンプルであったが、今まで見たどの祈祷よりも説得力があり、天に住まう神々がエウリュトスの魂を祝福しているかのように、陽光が煌めいた。
「――では小生は、そろそろ帰るとしよう。我が弟子エウリュトスが、楽園エリュシオンに行けることを切に願って・・・。では、さらばだ」
 一通りの祈祷を終えたケイローンは、愛弟子に別れを告げ、今にも駆け出そうと身構えた。ヘラクレスはそんなケイローンを呼び止め、背中からアポロンの弓を取り出し、ケイローンへと突き出す。それを見たケイローンは、ヘラクレスの方に体を向けると、両手でアポロンの弓を押し返した。
「ヘラクレス・・・それはもうお前の物だ。小生に返さずとも・・・」
「私は、まだアポロンの弓を使いこなせていません」
 突然の告白に、ケイローンは驚いたような顔をすると、即座に彼の左手に視線を落とした。ケイローンの目に、左手に痛々しく残る火傷の痕が飛び込んできた。
「・・・アポロンの弓を、力ずくで使ったのか?」
 ヘラクレスは、静かに頷いた。ケイローンは片手で頭を抱えながら、何かを考え込み始めた。その様子を眺めながら、ヘラクレスは言った。
「アポロンの弓は、どうすれば使いこなせるのですか・・・?」
 ケイローンは少し困惑した表情になり、再び考え込んだ。しかし、しばらくすると、意を決したようにヘラクレスに向き直り、芯の通った声で返答した。
「ヘラクレス、神の武器を完全に使いこなすにはそれ相応の時間と努力が必要だ。着火能力など、氷山の一角に過ぎん。だが、それをあの時に教えなかったのは、君を完全に信用し切ることができなかったからだ。神の武器を完全に使いこなせば、一国など簡単に滅ぼせる力を得ることになる。・・・強大な力に、君が溺れるかもしれないという疑心が生じてしまったのだ」
 ケイローンはヘラクレスの目を見た。真っ直ぐで、圧倒的な威圧感を放つ、彼の目を・・・。そこから少し視線を逸らすと、彼の目から流れ出た涙の痕が、うっすらと見て取れた。
「・・・だが、エウリュトスの死に涙する君を見て、その疑心は吹き飛んだよ。・・・もし良ければ、小生が神の武器を使いこなす術を教えよう」
 ヘラクレスの目が輝いた。再び、ケイローンと修行することができる。そう考えただけで、胸が躍った。それは、エウリュトスの死を一刻も早く忘れたいヘラクレスにとっては、願ってもみないことだった。
「だが、一つ、約束してくれ」
 ケイローンはヘラクレスの目の奥を見据えながら、静かに言った。
「決して力に溺れないと・・・」
 ヘラクレスはケイローンの目を見返し、信念の籠もった声で宣言した。
「無論です」
 ケイローンの顔に、笑顔が灯った。その時の頬の動きによって、涙の乾いた痕が少しだけ見えなくなった。
「それともう一つ・・・」
 ケイローンは、顎でヘラクレスの背後を示した。ヘラクレスが振り向くと、そこにはヘラクレスを見詰めるアンピトリュオンの姿があった。
「王様が呼んでいるようだ」

第十七話:忍び寄る影を読む


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