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テーマ:偏向報道を考える(55)
カテゴリ:マスコミ
『論語』 子罕(しかん)篇に曰く、
三軍も帥を奪うべきなり、匹夫も志を奪うべからざるなり 〔補説〕 全軍の心が一致していないときは大軍の将であっても討つことができる。しかし、身分の卑しい男でも意志を守る心が堅ければ、その意志を変えることはできない。 中日新聞(折り込みチラシ用)と併せて購読している 産経新聞(一日遅れ)のオピニオン欄に良い記事が掲載されていました。 上記は、その締めの部分です。 msn産経ニュース 【古典個展】立命館大教授・加地伸行 多数派重視のふわふわ分子 2010.6.27 03:09 より、全文を引用します。 世論なるものは、ふわふわと浮き漂っている。世論が民主主義だ、多数意見に従えといわれても、ふわふわ世論がどうして最高価値となるのか、私には分からない。 世には民衆を扇動する連中がいる。アジテーターである。彼らは、人々が集合したときに現れ、演説して議論を導いた。 五十数年前、私が学生のころ、学生運動が盛んであった。どこでもここでも集会があり、必ずアジテーターが現れてどなりまくった。しかしそれは、自分の意見に同意しない者は人間ではないと言わんばかりの感情論であり、論理性や知性のかけらもなかった。 ところが、そういうアジ演説に酔うバカがたくさんいたのである。五十数年前の大学生は、今どきのそれと異なり、しっかりしていたと思われているが、実際はそうではなくて、大半はふわふわ分子であった。だから、ちょっとしたアジ演説を聞くと、無批判にそうだそうだとヨイショするのが多かったのである。それが京大生の実態であった。そこから推量すれば、おそらく他大学の学生もほぼ同様であっただろう。 それから五十数年を経たが、事情に変わりはない。世はふわふわ分子の海である。しかし、異なる点がある。今の人は集合するということをしなくなってきている。 今日の大学では学生の集合など見かけない。集まっているとすれば、ライブショーだの講演会だのであって、集合の意味が違う。今の学生は、個か孤か知らんが、集まりはしない。けれども、大半は昔と同じくミーハーふわふわである。 当然、一般社会も同じであって、あい変わらずアジテーターに引っ張られている。ただし、今は人の集合がないので、アジテーターはテレビに登場している。いわゆるコメンテーターである。 彼らは昔のアジテーターのような大声で長々としゃべることはしないが、あい変わらず感情的結論だけを断定的に言う。アジテーターの本質は変わっていない。 さて、選挙。テレビのコメンテーターらは、特定の政党に投票するよう誘導・扇動している。彼らの関心は、どの政党が多数派になるかという話ばかりである。少数議員しかいない政党など何の力もないとして無視し、多数決、世論第一とふわふわしている。 しかし、彼らが本当に世論が大切と言うのならば、弱小の候補者たちの意見をこそ、この機会にしっかりと世に伝えるべきではないのか。 大政党公認の傲慢(ごうまん)な候補者は、小政党の弱小候補者を泡沫(ほうまつ)候補と嘲(あざけ)っている。テレビのコメンテーターらも同様である。 彼らの頭の中は、選挙を機会に民主主義とは何かと考える方向はなく、ひたすら数は力というそろばん勘定だけである。 小政党候補者の意見の中には、耳を傾けるべきものがある。いや、意見だけが重要なのではない。たとい泡沫候補と嘲られようとも、己の志を世に訴える勇気はりっぱなものではないか。 『論語』子罕(しかん)篇に曰(いわ)く、「(多数の)三軍(さんぐん)ありとて、(彼らの心が一つでなければ)帥(すい)(司令官)を奪(うば)うべし(奪うことができる)。(しかし)匹夫(ひっぷ)(たった一人の男)とて(心が堅(かた)ければ、その)志(こころざし)を奪うべからず」と。 (かじ のぶゆき) <ちょっと一言> 流石は、産経新聞。最近良いですねぇ。発言者の質が違います。 中日新聞は、民主党をヨイショしつつ少数派を無視、その上で世論調査を実施して、多数意見を民意だと吹聴する。 民主主義がわかっているのか? 少数意見を圧殺する中共の一党独裁と同じですね。 (中国共産党も民主主義を行っていると主張しています。) (民主党 小沢さんの考える「数は力」の民主主義も同じ。) 御来訪ありがとうございました。 ←いつもクリックありがとうございます。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2010.07.10 04:01:51
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