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2006.11.30
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カテゴリ:歴史秘話
11月28日、オーストラリア・シドニー沖にて、

太平洋戦争中の日本海軍潜水艦を発見とのニュースが流れました。

なぜシドニー沖に日本軍の潜水艦が?と思うところですが、

太平洋戦争がいかに広範囲で戦われていたかを示すものと思います。

この小さな潜水艦は、日本海軍の2人乗りの特殊潜航艇で、

軍事機密から「甲標的」と呼ばれていました。

1942年5月31日。

大型潜水艦に搭載されたこれら特殊潜航艇3隻が、シドニー沖より港への侵入を試みます。

当時連合国の一員であったオーストラリアの軍港シドニー港に停泊している

連合国艦船を攻撃するためでした。

軍港ですから当然厳重に警戒されています。

これらに対して20代前半の6人の特殊潜航艇搭乗員は、

それぞれ搭載する魚雷2本をもって立ち向かっていきます。

結果、1隻は港の入口で身動き出来なくなり自爆。また1隻は爆雷攻撃により沈没。

残るもう1隻が攻撃成功。宿泊艦「クッタブル」を撃沈します。

しかしこの艇は攻撃後行方不明となってしまいました。

この行方不明の艇が、今回発見の運びとなったのではないでしょうか?

特殊潜航艇を発進させた親の潜水艦は、

6月3日まで危険な海域で無事の生還を祈って待機していたそうです。

これからも分かるように特攻兵器ではありませんでしたが、

シドニー以外でも特殊潜航艇によって何度か行われた攻撃がいずれも生還出来なかったことから、

映画にもなった人間魚雷「回天」同様まさに”必死”の攻撃兵器となったのでした。。。


・・・このシドニー攻撃には後日談があります。

攻撃後の6月4~5日にかけて、オーストラリア海軍は2隻の沈没艇を引き上げます。

(1隻は行方不明)

引き上げ.jpg海軍葬.jpg

そして艇の中から4人の遺体を収容し、

その遺体を礼を尽くした丁重な”海軍葬”をもって弔います。

戦時中のしかも日本兵に対してのこの行為は前代未聞でした。

オーストラリア国内でも批判の声があがります。

しかし、グルード海軍少将は投降することなく艇と運命を共にした彼ら4人に対して

その勇敢さを称え、次のように弔辞を述べ、批判を退けました。

  「これらの日本の海軍軍人によって示された勇気は、

  誰もが認めるべきであり、一様に讃えるべきである。

  このような鉄の棺桶に乗って死地に赴くには、最高度の勇気がいる。

  これら勇士の犠牲的精神の千分の一でも持って、祖国に捧げるオーストラリア人が、

  果たして何人いるであろう・・・」


この海軍葬の模様は当時ラジオを通じてオーストラリア全土に放送されたそうです・・・

その後4人の遺骨は戦時交換船により運ばれ、10月9日に帰国します。

今回発見された特殊潜航艇が残る1艇のものだとすれば、残り2人の遺骨も回収されるはずです。

一日も早く故国へ帰られることをお祈りいたします。。。


・・・さらに話は続きます。

この攻撃に参加した6人のうちの1人に熊本県出身の松尾敬宇中佐がいます。

時は流れ23年後の1965年。オーストラリア戦争記念館の館長夫妻が松尾家を訪問します。

そこには息子敬宇を亡くしたがいました。

館長夫妻が「全国民が令息の勇気を尊敬しています」

と言えば、は丁重な海軍葬の礼を述べる。これをきっかけに招待され、

母まつ枝
は83歳という高齢でしたが、海に眠る息子がいるシドニーへと向かいます。

シドニー湾に立ったは、狭い湾口を見つめ、

  「よくもこんな狭い所を抜けてシドニー湾を襲撃したものだ。

  母は心から褒めてあげますよ。よくやってくれました。」


と頬を涙で濡らしながらつぶやいた。

そして自宅の庭に咲いていた生花を献花して、お神酒を注ぎました。

母.jpg

そしてその後記念館に足を運んだへ館長から遺品が手渡されます。

この時の様子です。

  ご母堂は全身を震わせ体が大きく揺れ出した。

  ハンカチで目を覆って館長の手にすがり、

  ご母堂を抱きしめる館長の目にも光るものがあった。


その遺品とは、松尾中佐が最後まで肌身はなさず身につけていた「千人針」でした。

戦後オーストラリア海軍は引き上げた2隻から1隻を復元。この記念館に安置します。

そしてその展示には、「この勇気を見よ!」との説明が添えられました。

その時自らの最愛の息子が乗っていた艇を目の前にしたは、

その艇をわが息子を慈しむように愛撫したそうです。

歌人でもあったがこの時のことを詠んだ歌です。

  愛艇を撫でつつおもふ 呉の宿

  名残りおしみし かの夜のこと


・・・松尾中佐は出撃前、両親と兄姉を呉に招いて一夕を共にします。

その夜「俺はお袋と一緒に寝る」の懐に寄り添って床についたそうです。

松尾敬宇 享年24歳。


関連書
行動学入門
撃沈





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Last updated  2006.11.30 03:12:15
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