『トュルー・グリット』
まじめにチェックしている訳ではないので取りこぼしも多いけれど、結構観ている部類に入るコーエン兄弟。ごく初期の作品は全部観てるはずだけど、その後は『ビッグ・リボウスキ』や『オー・ブラザー!』を観ておらず、けれどもなぜか『未来は今』や『レディ・キラーズ』は観た。セレクションが謎。このブログ始めてからは『ノーカントリー』と『バーン・アフター・リーディング』を書いている。改めて読み返すと、この兄弟、真逆の映画を平気で撮る。コメディとシリアス。一貫しているのは犯罪か?知らずに観たら、『ノーカントリー』と『バーン・アフター・リーディング』が同じ監督だとはわからないと思う。そして『トュルー・グリット』はシリアスな方に分類されるが、『ノーカントリー』よりも『ファーゴ』似ている。『ノーカントリ』には一切の救いがなかったが、『トゥルー・グリット』には決して優しくはないが人間の尊厳にあふれている。この映画最大の功労者は、主人公の少女マティを演じたヘイリー・スタンフェルドだ。彼女なしでは、ジェフ・ブリッジス(ルースター役)とマット・デイモン(ラビーフ役)という芸達者二人から尊敬を勝ち得る少女、などという設定は単なる嘘くさい話になっただろう。映画が始まってから追跡行に旅立つまでは、マティはやけに世間知のあるマセた気の強い少女だった。そこに尊敬すべき勇敢さと意志の強さを観たのは、彼女がルースターとラビーフに置いてけぼりをくらわされたと気づき、彼らを追って馬で川を渡るシーンだった。渡し船を使うような深く冷たい冬の川に迷わず馬で入り、見事渡り切って馬とともに岸に上がる瞬間の、マティの顔。渡り切ってほっとした顔でも、水にむせた様子を見せたわけでも、彼らのたくらみにも屈せず追ってきた自分を誇る顔でもなかった。むしろ川から上がった時が、彼らと自分との正念場だと、挑むような顔だった。ほんの一瞬のシーンだ。私の気のせいかも知れない。それでもあのとき、私はルースターと気持ちを共有したと思った。彼女を殺しでもしない限り、彼女の意志を曲げることなど誰にもできはしないと、あのときルースターは気づき、深い敬意を抱いたのだ。あの瞬間、この物語はリアリティをもった。甘い少女の成長物語でも、単なる復讐劇でもない、「真の勇気」というタイトルにふさわしい映画になった。コーエン兄弟が、ヘイリーにそういった演技指導をしたのかどうか、私は知らない。だが彼女がキャスティングされた理由は、わかったように思う。この物語でのルースターとラビーフは彼女を尊敬し、愛する。それはよくある父親が娘に対するような、師が教え子に対するような愛情ではない。ましてや『レオン』のように男女の愛を包含したものでもない。むしろ軍隊における指揮官とその部下の間にある感情に近い。そしてこの場合、指揮官はマティであり、部下はルースターでありラビーフなのだ。だからマティのために、ルースターとラビーフは自らの命を危険にさらすこともいとわない。彼らが彼女を助けるのは、彼女が守ってやるべき少女だからではない。尊敬すべき上官だからだ。映画終盤、マティを助けるため、星の下を駆けるルースターは美しい。敬意のために命を捨てるのは男の特権だ。そしてマティも、彼らの尊敬と献身にこたえ、彼らを愛する。生死を共にした、上官が部下を想うように。だから何十年と時間が経っても、彼女はルースターとラビーフを探している。それにしても驚きである。わずか14歳にして、マティは知っていたのだろうか。男から尊敬を勝ち得るには、命を賭けてみせるしかないことを。だからこの映画はやっぱり『ファーゴ』に似ている。結婚もせず母になることもなかったけれど、マティはマーゴのようだから。彼女たちのようになりたいと、映画が終わってそう思った。