『ノー・カントリー』
怖かったです。こんなに怖い映画がこれまであったでしょうか。秋葉原でとんでもない事件があり、東北では地震までおきたような時期に、こんな映画を見に行く私も大概ですが。。設定はよくある話です。偶然麻薬取引の現場に居合わせて大金をせしめた男を、殺し屋と保安官が追う。ただそれだけなんですが、ハビエル・バルデム(アカデミー助演男優賞とりましたね)演じる殺し屋シガーが、映画史上類を見ない恐ろしさで、物語を想像もつかないところへ導いていきます。いや、シガーも怖いのですが・・・コーエン兄弟の演出方法が、怖い。映像はスタンダードな撮り方です。ただ、音が・・・サウンドトラック、冒頭から一切ありません。息詰まる対決シーンも、殺人シーンも、穏やかなシーンでさえも。でも、現実世界ではサウンドトラックなど入りません。だから観客は見ているうちにいつの間にか、この物語がひどく生々しく思えてくる。死は、ドラマではないのだと。これが我々生きる世界なのだと。死は音もなく忍び寄る。映画を観終わった時の恐怖は、この世にはシガーが満ちている、という思いでした。この殺し屋シガー、私には「悪」というより「死神」に見えます。「悪」あるいは「悪魔」と呼ばれるのは、こちらも映画史上に残る殺人者:レクター博士の方が似合うでしょう。彼は誘惑し、もてあそび、人の魂を不安にし、そのくせ魅了してしまう。でもシガーは、突然現れ、無造作に死をもたらす。彼の殺しは平等です。「私を殺す必要はない」という犠牲者の言葉を、彼は理解しない。なぜなら死は誰にでも等しく訪れるものだから。それでいて、ちょっとした偶然や運で、死を免れることもある。コインの裏と表を当てるように。面白いことに、この死の法則に、シガー自身も従わざるを得ません。死に至りはしなかったものの、彼もまた、思いもよらない死と隣り合わせに生きている。この救いのない、やりきれない物語は、無力感に打ちのめされた保安官(トミー・リー・ジョーンズ)の長いエピローグで終わります。そこで彼がみたという夢の話を思い返すと、なぜだかBON JOVIの「LIVIN' ON A PRAYER」を連想してしまいます。この曲は、恵まれない環境にいながらも、諦めずくじけず、一方でいつか良くなるようにと、日々を祈りながら生きている夫婦を歌ったもの。希望ではなく、祈り、というところに、現実の厳しさを感じます。希望とは可能性です。その可能性すら感じられなくなったとき、それでも絶望することを拒否するなら、人は祈るしかない。吹雪の雪山を行く人の手にあるたいまつは祈り。その先に、きっと温かな焚き火がありますようにと祈りながら、私たちは、今日も死の訪れと隣り合わせに、生きている。