「一九八四年」 ジョージ・オーウェル
ジョージ・オーウェルを始めて知ったのは高校時代に読んだ開高健のエッセイからだった。当時全集を読んだりした。そして不器用で馬鹿正直なこの作家が大好きになった。好きな作品は他の作品なんだけどこの本には彼の人生への情熱がつまってる、貧しい人や弱者への深い共感と人間への深い洞察が・・・・・・結核に冒され喀血しながら書いた彼の遺作。
一九八四年、世界はイースタシア、ユーラシア、オセアニアの三地区に分割され、そこは徹底した全体主義的管理社会となっていた。オセアニア地区の“党員” であり、これまで絶対的支配者「偉大な兄弟(ビッグ・ブラザー)」のかかげる理想につゆほども疑いを抱かなかった主人公ウィンストンは、ある日、禁じられた行為である日記をつけはじめる・・・という筋立てのアンチユートピア=デトピア小説の古典的傑作。トマス・モア『ユートピア』、スウィフト『ガリヴァー旅行記』、ハックスレー『すばらしい新世界』などと共に読むと面白いと思う。
戦争は平和である (WAR IS PEACE)
自由は屈従である (FREEDOM IS SLAVERY)
無知は力である (IGNORANCE IS STRENGTH)
4つの省庁の入ったピラミッド状の建築物が聳え立っており、この三つのスローガンが側面に書かれている。
4つの省庁は以下だ。
平和省(The Ministry of Peace、ニュースピークではMinipax)
軍を統括する。オセアニアの平和のために半永久的に戦争を継続している。
豊富省(The Ministry of Plenty、ニュースピークではMiniplenty)
絶えず欠乏状態にある食料や物資の、配給と統制を行う。
真理省(The Ministry of Truth、ニュースピークではMinitrue)
オセアニアのプロパガンダに携わる。政治的文書、党組織、テレスクリーンを管理する。また、新聞などを通しプロレフィードを供給するほか、歴史記録や新聞を、最新の党の発表に基づき改竄し、つねに党の言うことが正しい状態を作り出す。
愛情省(The Ministry of Love、ニュースピークではMiniluv)
個人の管理、観察、逮捕、反体制分子(本物か推定かにかかわらず)に対する拷問などを行う。すべての党員が党を愛するようにすることが任務。
出版された時代(当時レッドパージのさなかだった)と、ソ連をモデルにしたと思われる背景世界(党員とプロレ階級、スターリンとトロツキイにあたる「偉大な兄弟」とゴールドスタイン)のために不幸にも反共小説としてのレッテルをはられてしまうが、実際には人が人を支配する政治というメカニズムそのものを痛烈なアイロニーによって攻撃した作品にほかならない。なるほど共産主義は政治の持つ醜悪さというものを如実に示していおり、そのためにオーウェルもそれを下地にしたが、彼が表したかったのはどの政治体制も一皮剥けば同じ側面がのぞくことだというのを、注意深く読めば理解できるだろう。
ユーラシアかイースタシアとの戦争はたぶんに架空のもので、国民は実態を知らず、政府の公式発表を鵜呑みにしているにすぎない。戦争相手はときおり変わり、しかも変わった瞬間、すべての公式見解は新しい相手とずっと戦争を続けてきたという内容に書き換えられる。主人公ウィンストンは〈真理省〉で、この文書改竄(かいざん)業務にたずさわっている。
改竄は戦争に関してだけでなく、反政府的な思想・行動のかどで追放処分(しばしば不意の失踪という形をとる)を受けた人間についても徹底され、消えた個人の痕跡はすべて抹殺される。ようするに、政府の絶対的無謬性が作為的に維持されていて、国民はそれが作為であることさえ忘れるよう強制されるのだ。
こうした作為の容認と無意識化(=洗脳)を刷り込む手段が、「二分間憎悪」や「憎悪週間」などで敵(戦争相手、非愛国者)への憎しみを組織的に扇ることと、「二重語法」(ダブルスピーク)という新しい国語。後者は、たとえば情報操作と歴史改竄の役所を「真理省」、密告と拷問と暴力的人間改造の役所を「愛情省」と名づける倒錯の常態化・公式化を指し、その“正しい考え方”は「二重思考」(ダブルシンク)とも呼ばれて奨励される。と同時に、これらの語法・思考法は単純化が鍵で、語彙は極限まで削られ(当然「自由」や「正義」といった複雑な概念は消える)、頭に「プラス」をつければ強意(もっと強めるには「ダブルプラス」)、「アン」(~でない)をつければ反語になる。
物語の最後に、完全に洗脳されきり、愛するジューリアをも裏切った主人公ウィンストンの姿は国家機構に対する個人の人間性の必然的敗北のカリカチュアであり、その事実は、はからずもウィンストン自身の口からも示されている。
「いま僕たちの演じているゲームでは、僕たちの勝利というのはありっこない。ある種の敗北の方がましだという、たったそれだけの話さ」
主人公ウインストン・スミスは、愛情省による拷問を受けて2 + 2= 5であることを認めるにいたる。そこで彼は殉教者としてではなく、ビッグ・ブラザーの信徒としてロンドンの町に戻される。とうとう独自の思考を諦め、ビッグ・ブラザーを愛した時、ウインストンは殺されて小説が終わる。小説のこの寒々しい結末は当時の僕には白土三平の「カムイ伝」とともにそのあまりの陰惨さに人間はここまで愚かで残忍ではないだろうと思っていた。
しかしあれから20年以上を経て現実のほうがオーウェルの想像力を凌駕したと思う。おそらく、それと気づかない状態でいつのまにか人間性さえ失うこの国の状態は、ある意味、北朝鮮よりも怖ろしい。権力者側の支配の巧みさは今の状況の方が高度だ。オーウェルが何故血を吐きながらもこの話を書いたのか?僕がわかってきたのはこの数年のことだ。確かオーウェル本人がどこかでこの小説は1948年の英国の事だと書いていた。おそらくこの世界の支配者が何者かがわかりつつ書いたのだろう。「1984」を反共小説したかったのは西側の権力者達だろう。
42年前、オーウェルは『政治と英語』という題名の小論文を書いた。今日、彼の言葉はいつになく現実味を帯びて我々に降りかかる。「今の時代、政治演説や文章は、大部分が擁護不可能なことの弁明でしかない」
さらにオーウェルはこういった。「鎮圧や残虐行為は実際、防衛可能である。しかし、それは論争によってのみであり、その論争は大部分の人が直面するにはあまりにも残酷で、政党が公言する目的とは一致しない。だから政治表現には、婉曲語が用いられ、追究を巧みに避け、完全に曇った曖昧語があふれているのである」と・・・・・・
僕がオーウェルの作品で好きなのは「パリ・ロンドン放浪記」だ。
前半はパリで超貧乏生活を送る事となったオーウェルが皿洗いの仕事で口を糊し、後半はイギリスに戻ったものの当てが外れてホームレス生活を送る。貧しき者たちとともに生きたオーウェル。
大英帝国が生んだ1人の誠実であった。
ノーマン・ソロモンが1984を用いて素晴らしい文章を書いている。
以下引用。
米国のミサイルがスーダンとアフガニスタンの拠点を攻撃した翌週、不快な気分になった米国人がいたであろう。少数派だが声高に反対を叫んだ者さえいた。しかし、やさしいオーウェル的論法を少し学んだ者たちは、いつも通り米国の行為を肯定した。
テロリストが攻撃するとそれはテロ行為とされ、米国の攻撃は報復となる。テロリストが報復に対してさらに攻撃を加えると、それはまたテロ行為となるが、米国がまた反撃をすると、それはまた報復となる。
人々が、米国政府によって民間人に死者が出たことを非難すると、それはプロパガンダだとされる。それとは逆に、反米グループによる爆撃で民間人に死者が出ると、その犯人は悪であり、死は悲劇となる。
テロリストが車に爆弾を仕掛けて人を殺害すると野蛮な殺人者と呼ばれる。米国がミサイルに爆弾を搭載して人を殺害すれば、それは文明的な価値観を持つとされる。
彼らが殺人を犯せばテロリストで、米国人が殺人を犯せば、テロに対抗していることになる。
米国人は、誰を憎み、誰を恐れるべきかを常に知らされている。1980年代、イスラム原理主義者オサマ・ビンラーデンは米国にとって便利な男であった。なぜなら彼はアフガニスタンを占領するソビエト軍に対して、暴力で執拗に抵抗していたからである。そうした意味で米国にとってビンラーデンは、少なくとも悪人ではなかった。しかし、今、ビンラーデンは真の悪者になった。
これまで米国の政府高官は何度も嘘をついてきたにもかかわらず、今また、彼らは信用されている。爆撃されたスーダンの首都、ハルツームにある薬品工場は神経ガスの原料生産にかかわっていたとする曖昧な証拠を高官が示すだけで、米国人に信じ込ませるには十分であった。
力が必ずしも正しいというわけではない。しかし現実世界では、米国の力は正義である。疑わしい政治指向の者だけが、国際法についてとやかくいう。
外国のマスコミがその国の政府を擁護した報道をすると、それはプロパガンダに過ぎないといわれる。しかし、米国のマスコミが米国政府のレトリックのための報道をすると、責任あるジャーナリズムになる。
スーダンやアフガニスタンのような国で政府の主張を強烈に繰り返すニュースキャスターとは違って、米国のキャスターは話す内容を指示されることはない。自分たちが好きなように報道する自由がある。
「調教師がムチを打つと、サーカスのイヌは飛び跳ねる。しかし、本当によく調教されたイヌはムチがなくても宙返りをする」とジョージ・オーウェルはいった。
オーウェルは、「言葉が醜く、不正確になるのは、我々の考えがばかげているからだ。しかし、我々の言葉の弱さが、ばかげた考えを持つことを容易にしている」といった。彼の小説『1984年』には、「新語法(ニュースピーク)(政府役人などが世論操作のために用いる曖昧な表現)の特別な働きは、意味を表すためではなく、それを剥奪させるためである」と記されている。
国家安全保障、西洋の価値観、国際社会、テロリズムとの戦い、付帯損傷(軍事行動によって民間人が受ける人的および物的被害)、米国の国益などがニュースピークの例である。
オーウェル風の事実の操作と歪曲プロセスで驚くべきことは、それが普通の情景の一部にうまく溶け込んでしまう傾向にあることである。明けても暮れても、我々はそれを当たり前だと思うようになっていく。そして未知の神経回路に進もうとはしたがらなくなる。
『1984年』でオーウェルは、条件反射についてこう書いている。「いかなる危険な思考についても、あたかもそれが本能であるかのように、その前のところで踏み留まる。または異端の方向に進む可能性のある思考の流れに対しては、うんざりするか、または不快に思う」
オーウェルは「二重思考」をこう表現した。「不都合になった事実を喜んで忘れ、それがまた必要になれば、必要な間だけ忘却の彼方からそれを呼び起こすこと」
そして彼の『1984年』の後書きで、エリック・フロムはこう強調した。「オーウェルの著書を理解するために欠かせない点は、いわゆる「二重思考」が単に、将来たまたま起きるものや、独裁政治下で生じるものではなく、我々の中にすでに存在しているということである」