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テーマ:散歩(1167)
カテゴリ:地元の史跡
名古屋市昭和区御器所3丁目
八大龍王社から徒歩で南に5分程歩きます グーグル先生曰くほぼ平坦と仰るが、龍神様の池があった場所です、平坦な訳がない。 緩やかに下り、そして緩やかに上り御器所八幡宮方向に続きます。 緩やかな登り、その先は写真の様な三差路となります。 「止まれ」の標識の左に小さな社が視界に入るはずです。 「御所屋敷趾」到着です。 車で訪れると駐車場に困る場所かもしれません。 境内と言っていいのか分かりませんが、歩道から板宮造りの社がとても良く見えます。 三差路から御所屋敷趾の全景 玉垣はなく、代わりにブロックが積まれ敷地を取り囲んでいます。 屋敷跡の道路脇に名古屋市教育委員会の解説板。 『秀吉の母、大政所は従一位まで叙せられていながら、その素性がはっきりしない。いつごろから御器所の人だと云われ始めた分からないが、天野信景の随筆「塩尻」には「尾州愛知郡御器所村の人也」とある。また、この後天保年間(1830~44)尾張藩がまとめた「尾張志」には「この御器所村の古老伝説に、太閤秀吉母堂はこの御器所屋敷に住んで秀吉を生み、そこで御所屋敷というようになった」とある。 秀吉の母が持萩中納言の娘との伝説と、中納言の屋敷があったとの伝説が結び付いたものと云われている』 尾張史の記述については、これと符合する裏付けが定かではないようです。 大政所(仲)1516年(永正13)~ - 1592年(天正20) 屋敷趾には基礎の跡とか、それを語るような遺構はありません。 それと知らなければ、ここはどなたが祀られた神社でしょうね、という趣です。 天下人秀吉の母(仲)の在所だったとして、屋敷きにしてはこの区画はあまりにも小さく、当時の規模がどの程度のものなのか、知る術はありません。 周囲は住宅街に生まれ変わり、この一画だけがポッンと残っている事が不思議なくらいです。 入口左の「御所屋敷趾」石標(大正12年)。 ここが残っていられたのは、奥に祀られた社のお陰もあるのかも。 社の主は分かりません。恐らくですがこの御所屋敷趾に後から祀られたものでしょう。 御所屋敷趾に祀られた社は良くわからなかったけれど、この御所屋敷趾は史跡として、社の神域としてこの住宅街に残って行くだろう。 御所屋敷趾 住所 / 名古屋市昭和区御器所3丁目32 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2019.12.20 07:55:38
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