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カテゴリ:神社仏閣・御朱印
静岡県浜松市中区元城町 『元城 東照宮』
静岡の東照宮と云うと久能山東照宮がすぐに思い浮かびますが、浜松市中心街に聳える浜松城を西に望む元城町の高台にも『元城 東照宮』が鎮座しています。 無料の浜松城公園から国道を越え、目の前に聳える高台に「元城 東照宮」が鎮座しています。 高台全体がこんもりとした杜に包まれているため、社殿は見えにくいかもしれません。 西側から高台に続く坂を登ると左側に石の鳥居とその先に拝殿が見えます。 東照宮と聞くと日光東照宮であったり久能山東照宮のような広大な境内をイメージしますが、全国各地に建立された中にはこうした規模のものは普通に存在するもの。 鳥居の扁額は「元城 東照宮」とある。 元城とあるように、この辺りはかっての曳馬城の跡地に建っているという。 駐車場から望むこの高台はそうした城の名残が感じられます。 今は社頭右の曳馬城址の石標が建つのみ、曳馬城の築城年や城主など不詳の様です。 鎌倉時代の浜松の町は「ひきま(ひくま)」と呼ばれていたそうですが武士にとって曳馬は縁起が宜しくないものです。 1570年(元亀元年)に徳川家康が引間(曳馬)城に入城、城域を西に広げ浜松城とし形作られていき、引間城は主役の座を明け渡しその後は米蔵として利用されていたそうです。 東照宮が鎮座する場所は引間城本丸にあたるようです。 鳥居をくぐり境内に入って左に手水舎、手水鉢。 ここに元城東照宮の由緒が掲げられています。 祭神は徳川家康、事代主命、大国主命 明治維新後浜松藩代井上延陵により1884年(明治17)に創建。 その管理を大日本報徳社に委ねていたが、1936年(昭和11)大石力氏がその所有権を井上家より、大日本報徳社からは管理権を引き継ぎ元城町の氏神として奉斎。 1945年(昭和20)戦災により焼失、1959年(昭和34)に社殿、手水舎、社務所等再建現在に至る。 井上延陵は家康が城主を務めた引間城のあるこの地に、神となった家康を祀る東照宮を建立したかったのだろう。東照宮創建の立役者井上延陵、彼の大きな碑が手水舎の右に建てられている。 ネッシー? 1959年に再建されたとは思えない龍口は貫禄十分。 龍にばかり視線は行きますが、手水舎も見てやってください、気持ちよさげに転寝する猫などもいます。 右に社務所、訪れた時は無人でした。 一段高く積まれた境内に社殿が鎮座します。 権現造りのコンクリート造りという事もあり、絢爛豪華な東照宮のイメージとは少し違い、飾りは控えめ、木鼻の龍は力強い。 拝殿前狛犬。 社殿をひと回り。 本殿横から拝殿方向の眺め、高欄の赤が無ければ地味な社殿かもしれない。 本殿の千木は外削ぎ。 5本の鰹木が施されています。 戦災で焼失後、昭和に入って再建された事もあり、火に強いコンクリート構造を選択したのもそうしたことがあるのかもしれない。 拝殿西側からの眺め。 訪れたのが、あと数日で新たな年を迎えようとする時期、境内の紅葉が東照宮に彩を添えていました。 脇扉には滝に打たれる獅子の姿が飾られています。 拝殿左に権現道の石標がある、上部の欠損は空襲の爪痕なのかな。 空襲により神社は焼失しましたが、入口の石鳥居が唯一被災を免れたものといわれています。 写真の石標が空襲を耐えたものであるとすると、ある意味「何かを持っている」。 拝殿右に引間城と所縁のある家康と秀吉の銅像が並んでいます。 農民だった秀吉はここから武家奉公の機会を掴み、若き家康は居城として共に天下人となりました。 引間城はそうした二人の天下人を誕生させた舞台となった事から、出世神社として運気を授かりに訪れるそうです。 2015年、拝殿右に彼らの銅像が建てられ、二人の天下人の間に立って写真を撮り、それをSNSに上げるとその人の運気があがるパワースポットとして整備したようです。 引間城址に建つ二人の像と社殿。 秀吉、家康の二人を天下人に導いた引間城、井上延陵の家康への思い。 一見普通の神社に見えてしまう元城の東照宮ですが、焼け残った鳥居など、ここには何か持っているものがあるのかも知れない。 2020/12/24 『元城 東照宮』 創建 / 1884年(明治17) 祭神 / 徳川家康 住所 / 静岡県浜松市中区元城町111-2 車でのアクセス / 東名浜松ICより約20分 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2021.01.10 18:14:45
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