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カテゴリ:神社仏閣・御朱印
前回掲載した白鳥神社(柿野3660)から国道363号線を東進する事約5分程
鶴里町交番の前に今回紹介する銀幣社 白鳥神社が鎮座します 写真は鶴里町交番(右)と国道を挟んで白鳥神社社頭の眺め この辺りは中馬街道の宿場として白鳥神社から東方にかけて集落が作られていた この国道を直進すると明智方向へ伸びています 国道から白鳥神社社地の眺め この時期は源平咲きの梅が見頃を迎えていました 社頭全景 鳥居の先に二本の杉が聳え立っており、社殿は更に奥の山の裾野に鎮座します 右の社号標は「郷社 白鳥神社」とあり、大正元年(1912)に寄進されたもの 正面の石の明神鳥居も大正元年(1912)に寄進されたものでした 鳥居の左に手水舎があり、右には百度石をはじめとする石碑が立てられています 手水舎と手水鉢 鉢の寄進年は読み取れなかったが、そこには金色の眼をした龍の姿があります 右の石標 左が百度石で他に記念碑が立てられています 石段上り口の由緒 「銀幣社 白鳥神社 鎮座地 土岐市端里町柿野字陣屋2262番地 主祭神 日本武尊(小唯命) 由緒 創祀不詳、社伝によれば猿投神社の創建時に、 主祭神大唯命の弟君の日本武尊(小確命)を柿野に祀ったと伝えられているが、確証がないのて創建伝説とされている 平安時代に制定された美濃国神明帳(977年頃) 「正五位下垣野明神」と記載され此の地の守護神として垣野明神が祀られていた これが「柿野」の 地名の出自となっている 依って10世紀前半の創建と推定されている 柿野の産土神で明治6年(1875)に郷社と なり昭和28年に銀幣社に指定された 末社 熊野神社、猿投神社、神明神社、八幡神社、若宮神社、白山神社、津島神社、杵築神社、尺地神社 例大祭 建国記念祭 2月11日に近い日曜日 初午・祈年祭 3月随時 例大祭 10月第1日曜日 新穀感謝祭 11月随時 七五三詣り 11月随時」 銀幣社があることから、瀬戸市から僅かばかり東に来ただけで、すでにここが岐阜県であることを実感します 明治初期には、神社は県社、郷社、村社という格付けがされていました 戦後には、全国の神社が一律に、平等に扱われることとなり、この制度は廃止されました しかし、岐阜県では、社格が一律であることはおかしいと考え、金弊社、銀弊社、白弊社、無格社の4つに分類する、岐阜県固有の社格制度を導入しました 境内全景 右に社務所、その奥が農村舞台で正面の社殿と右側に境内社と射場があります
シンプルな意匠の社殿です 「創祀未詳岐阜県神社庁による当社の解説は以下の通りです 本國帳所載土岐郡七座の内垣野明神と称す 里伝に曰く即ち本村当國土岐郡南方の山間に在りて三河國加茂郡と接す 同郡猿枝山に鎮座の神は大碓命なり 之れ当社に祭る神小碓命の御兄に坐せり 故に当社は猿枝山同時に鎮座ありと云へり 又、嘉吉2年(1442)11月葺き替えの棟札に武藤右衛門と記せり、其の頃の領主と見えたり 何の所に居住人なるや知りがたし 当社従来本村の産土神なり」 創建について猿投神社と同時期に鎮座とあるが実際どうなんだろう 嘉吉2年(1442)葺き替えの棟札までは間違いがないだろう、社頭の由緒にあるように伝説と捉えるべきだろう 文中の「猿枝山」は恐らく猿投山の誤記と思われます ここでも「垣野」の表記が現れた、現在の柿野になったのがいつ頃なのか気になってくる 拝殿右側から覆屋方向の眺め 覆屋右の境内社 右から神明神社、杵築神社、熊野神社が祀られています 覆屋左の境内社 右から八幡神社、津島神社、猿投神社が祀られています 覆屋の中の本殿は恐らく檜皮葺の一間社流造のように見えます拝殿の三面に廻り縁が付けられており、軒から一間向拝が迫り出しています 拝殿から眺める手入れの行き届いた広い境内 国道から車で直接境内に乗り入る事が出来そうです 境内から鳥居の眺めです 石段の前で鳥居の様に剪定された松が印象に残る 常夜灯(1912)の前はかつて馬が行き交った中馬街道、旅の疲れは柿野温泉が癒してくれる 銀幣社 白鳥神社 (鶴里町柿野) 創建 / 不明 祭神 / 倭建命 境内社 / 熊野神社、猿投神社、神明神社、八幡神社、若宮神社、白山神社、津島神社、杵築神社、尺地神社 例祭 / 10月10日 所在地 / 岐阜県土岐市鶴里町柿野2240 白鳥神社 (鶴里町柿野3660)から車アクセス / 白鳥神社から国道363号線を東進、約5分 参拝日 / 2024/04/18 関連記事 / ・白鳥神社 (土岐市鶴里町柿野3660) ・岩巣山北嶺・東麗の神社巡り 「白岩町 八王子神社」 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2024.05.05 00:00:21
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