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カテゴリ:生活・文化
「言い訳」が万人の誰にもある罪であり、間違いが必ずしも万人の誰にもあるわけではない。 アダムとイブが禁断の果実を何であるか知らず間違えて取って食べてしまったわけではない。 つまり、過失ではなく、もともと秘かに二人で相談し、知っての上で取って食べたのである。 たとえば、国の運営などは決して過失であろうと間違いがあってはならない厳しさがある。 したがって、国が罪な言い訳をするということはごく日常なのである。 それに対し、うっかりの失敗(過失)をすでにしてしまった後では、日常茶飯事の言い訳が整わなくなる変化を生ずるということなのだ。 だから、仏は古代から、言い訳とは予め上手く整えて使うことを覚えさせ、貴重な習慣としてきているのだ。 だから、言い訳とは仏の方便であり、真実そのものなのではないが、うっかりな過失が起きないよう真実へ導くためにする説法の上等な手段なのである。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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