邪馬台国はどこにあった?[2]
第1章 出発魏志倭人伝は大きく分けて6つの章に分かれている。|地理||習俗||社会||歴史||地理(二)||外交| 今回の目的は、邪馬台国はどこにあったかを突き止める事。なので、風習・社会等は必要なときに検討するが、場所を特定できる地理と地理(二)の解読を最優先とする。魏志倭人伝で「邪馬台国」の場所が書かれている部分が前回紹介したものだ。解読しなければならない文章もかなり少なくなり、私にすれば好都合である。まず、第1章は『出発』。さぁ、悠久の国、邪馬台国へ出発だ!******************************************倭人在帶方東南大海之中、依山島爲國邑。舊百餘國、漢時有朝見者。今使譯所通三十國。******************************************倭人在帶方東南大海之中、依山島爲國邑。倭人・・つまり日本人・邪馬台国・・・は「方東南大海之中」東南の大海の中にある。この帶方とはどういう意味なのか?方はおおよその位置・方向・時間などを表す他、方墳のように方形、つまり四角を表すときにも用いられる。在は存在する。帯はおび。東南大海之中は東南の大海の中。そのまま訳せば、倭人、つまり邪馬台国は存在する、東南の方角に帯状に、大海の中、となる。要するに「邪馬台国は魏国の東南の方角の大海の中に、帯状に広がっている」となる。はたしてこれでいいか?その為には、中国の歴史を知る必要がある。年表によると、魏は265年に晋により滅ぼされている。魏の建国は220年。たった45年しか維持できなかった国なのだ。これからわかる事は、220年から265年の間に日本に来たという事になる。紀元前108年から4世紀中頃までの朝鮮半島は、原三国時代と言われた。この時代、中国王朝はおよそ400年もの間、朝鮮半島中・西北部は郡県による直接支配、南部は間接統制を行った。直接支配は、前漢の武帝が紀元前108年に設置した楽浪郡・真番郡・臨屯郡、紀元前107年に設置した玄菟郡の地方行政機構により行われた。要するに、郡とは植民地のことである。下の地図は前漢(紀元前100年-紀元前97年)のときの朝鮮半島である。半島には多くの郡が設置されていた。古代中国によって朝鮮半島の中西部に置かれた軍事・政治・経済の地方拠点である郡の長が太守であり、その配下の官吏と軍団の在する郡役所が郡治である。帶方もこの郡の名前で帶方郡であろうと想像できる。それは、楽浪郡から作られていった。