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「私の“修行”の第一歩は、基礎的な呼吸法を慎重に充分に練習し、マスターし、呼吸法の各々をからだの実感としてとらえることが出発である」(野口三千三)
と言い切り、それを「練習し、マスター」することを指して、 「からだの感覚というものは、それがわかるまでは皆目見当がつかずむずかしく、頼りないものだが…」」(野口三千三) とその困難さをことばにしてしています。 でも、それなのに、その練習のなんと楽しいことか…、 スタジオは笑いで溢れています。 それはきっと生きていれば誰もが息をし、 生きる喜びも辛さも呼吸に表れ、呼吸に左右されているからに違いありません。 「練習し、マスター」するのに暮らしの具体を取り入れるのが実にぴったりなのです。 失笑、苦笑もあるけれど、現実的で実感があるからなおさら爆笑もあるのです。 息の絡んだ具体は誰でも経験し、共有できることなのですから。 反面、それなのに呼吸のことは置き去りにされています。 自分は呼吸が浅いと思う人…? 何人かの人がすぐに勢いよく手を上げます。 なんと正直に自分の実体が分っていることか、感動するほどです。 からだの動きのときにもちゃんと表れています。 最初に手を上げたNさんが訴え始めます。 「介護の仕事しているけれど、全体が見えないんです。 いつも注意を受けて…、すると頭が真っ白になって…、何がなんだか分らなくなって…。」 そんな時息をしていないのよね? 「もちろんです…。」 このところ泣かなくなっていたNさんの涙を、久しぶりに見ました。 教室にいるときから推し量って、仕事場でどんな様子なのかがよく分ります。 決してにくめない愛らしい人だけに、廻りの戸惑いまでも察せられます。 呼吸を変えること・呼吸が変わることで ほとんどの問題の解決の糸口がつかめると実感しています。 最も根本的な息を抜きにして、他の手で問題の解決をしようとするのはあまりにも遠すぎます。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
Dec 13, 2007 11:37:38 AM
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