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存生記

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2007年03月21日
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東浩紀、『ゲーム的リアリズムの誕生、動物化するポストモダン2』、講談社現代新書、2007年。

 「物語の衰退」というポストモダン的な現代にあって、「キャラクターのデータベースを環境として書かれる」ライトノベルや美少女ゲームの「ゲーム的リアリズム」からどのような徴候が読み取れるかが論じられている。「物語の衰退」というわりには、夥しい物語が日々生産されて消費されているが、ここでの衰退は(例えばマルクス主義などの)「大きな物語」を指している。結婚して子供を作って…という「物語」もそこに含まれるのかもしれない。

注意すべきは、オタクたちは現実を嫌って仮想現実の世界にひきこもる……といった単純な話ではないことだ。オタクたちだってほとんどの人は社会生活という「現実」を営みながら、虚構を楽しんでいる。そもそも「現実」とは何なのか。これが文学史でも思想史でも問題になってきた。芥川賞のことも言及されているが、こういうハイカルチャーではいまだに自然主義的現実を写実できているかが評価の基準になる。選考委員の石原慎太郎や村上龍らの鑑識眼にかなった「リアルな」小説が受賞し、このときばかりは小説でも読もうかという層を刺激する。ニートや独身女性、トラウマを抱えた若者などの現代の有様を透明に写し出す言語作品が優れた文学作品だと喧伝される。

本書では、自然主義的リアリズムからは遠い、清涼院流水、舞城王太郎らの作品を取り上げることによって、大塚英志のいう「マンガ・アニメ的リアリズム」の解明やその意義について論じられている。ひとくちに美少女ゲームといってもポルノグラフィーとしての制約のなかでさまざまな仕掛けが施されていることがわかる。飽きっぽい消費者に買ってもらうには、あの手この手で工夫しなければならない。そこには、作り手の意識しない「ポストモダン」的なおもしろさが盛り込まれている可能性がある。筆者は「環境分析的読解」と称して、ゲームやノベルの批評に着手する。

おもしろいのは、動物化した状況としてのポストモダンと、ピンチョンやなんやらの大学の教材に使えそうなハイカルチャーのポストモダニズムを分けていることだ。動物化したポストモダンにおいては、理想や虚構は消滅するのではなくその受容がきわめて単純になる、と注で触れられている。動物化という言葉の語感からはズレがあるので注意が必要だろう。マンガやゲーム、ライトノベルは、ごく日常的に消費され、生活に馴染んでいることだろうか。いずれにしても、このような分け方によってより自由に批評することが可能となった感じである。

ポップな作品やジャンルはとかく軽視されるが、本書では、大塚英志のマンガ論を軸にして軽さのなかに可能性を見ようとする。大塚は、キャラクターに血を流させることの意味を小説やマンガが回復できるのかと問いかける。流血が無意味な殺戮遊戯になってしまえば、モラルの頽廃をまねくと考えるのだろう。実作者として宮崎勤事件をまのあたりにした人ならば当然の問いかけかもしれない。マンガはつまるところ記号の寄せ集めだが、性的あるいは暴力的な妄想を刺激する身体性の次元もなくはないからだ。死という「リアルな」一回性を表現できるのかどうかという問題設定に対して、本書では、ゲームのように何度でもやり直せる死を提示することで、かけがえのない生について考えることができると回答する。SFでも『リプレイ』なんて作品があったのを思い出したし、思想的にはニーチェの永遠回帰がそれにあたるのだろう。

ここでも「現実」と「虚構」が対置されて、虚構の有害性が懸念されているように感じられるが、そうした単純な図式を取り払うべく論じられていることは注意しておきたい。

これを読んで、例えば黒木亮の経済小説を思い出した。ロンドンのシティに勤める銀行マンがトルコやロシアを舞台にイタリアの財閥や邦銀とはりあいながら大勝負に挑む、といった類のストーリーである。ここでは、現代の神話が巨万の富を操作する英雄として描かれている。はたからみるとゲームに興じているようにしか見えないのだが、失敗した企業は大幅なリストラを余儀なくされる。そこには路頭に迷う人たちが大勢いるにちがいないが、少なくとも小説では問題にならない。

この経済小説のリアルでポップな世界は、ホリエモンが村上ファンドと組んでニッポン放送を買収したときと似ている。検事や裁判官は「額に汗して働くことの尊さ」を諭したかったようだが、ホリエモンはホリエモンで猛烈に働いていた。太っていて汗っかきなのかもしれないが、汗だくになって働いていた。社長をやりながらタレント業もこなし、選挙活動までやっていた。

いやそれは意味がちがうよ、と言うかもしれないが、経済小説に登場するハードボイルドでワーカホリックなヒーローたちも似たようなものである。

思えば、堀江はホリエモンというキャラをたてるべくマスコミに売り込みをかけた。それにマスコミも飛びついた。リアルでポップな仮想世界に視聴者を巻き込むことに成功した。ホリエモンも視聴者に自社株を売りつけ、キャラを確立することができた。私の友人でライトノベルを書いている作家がいるが、ストーリーと同じくらい、もしくはそれ以上にキャラには注意を払う。本書の「キャラクター小説」という名称は、プレイヤーがキャラを操作したり、「萌え」たりするゲーム的リアリズムを反映している。

文学において「現実」とは何かという問題は、すでにサルトルの『嘔吐』に現れていた。マロニエの根に吐き気を覚えることで暗示されていた「存在」は、現実という外部を指し示すものであった。こうした実存小説に異議を唱えたのがヌーヴォーロマンの一派で、言語遊戯的な作品を戦略的に創作した。自然主義的リアリズムとマンガ・アニメ的リアリズムの対立は、19世紀的なバルザックのような小説とロブ=グリエやクロード・シモンのようなヌーヴォーロマンの小説の対立とシンクロするものがある。

とはいえ、ヌーヴォーロマンは難解すぎた。日本でも流行現象として消費されてしまい、芥川賞の選考過程をみるかぎり、ヌーヴォーロマン的な視点から選考がなされている気配はない。虚構のおもしろさや不気味さを「リアルに」とりあげるには、マンガ・アニメ的リアリズムという切り口が21世紀においては有効なのだろう。

個人的に気になっているキャラは「松坂大輔」である。スポーツもキャラ化して、ゲームにも現実のデータや潜在力が反映される。「日本」という記号を背負った「松坂」は、現代日本の神話的人物として注目を浴びている。一億ドルの男という名称は、経済小説の主人公のようだ。ジャイロボールという魔球のことが報道されているのも、メディア的戦略であると同時に人々の無意識に訴えるポイントなのだろう。ホリエモンも松坂も丸っこくて愛嬌がある。違うのは、ホリエモンは目が笑っていないのに対して、松坂のほうは邪気のない笑いだということ。きっと現地でも人気を集めるだろう。





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最終更新日  2007年03月21日 22時25分55秒



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