「こんな風景を見てると、腐草為螢って、昼間枯れ草しかなかったところを夜に見たら、草も見えないくらいに螢だらけだったから、枯れた草が螢になったように見えたんじゃないかって思っちゃう」
「それも有り得ますね。でも・・・・・・」
「でも?」
わたしは彼女を見上げた。少しだけわたしより高い位置にある彼女の視線は、真っ直ぐに川向こうを捉えている。彼女の周囲を儚い線を描いて、螢が飛び交う。
「あなたの旦那様は、不思議な方ですね」
唐突に、彼女が振り向いた。嫌味や嘲りなどではない、素直な感想のようだった。
「きっと普通の人には見えない、本質のようなものが見えるのでしょう。彼の話に出てきた老人のように」
「本質が見えるのかどうかは分からないけど、変わってることは事実ですね。あんなことが本当にあったって、真面目に信じてるくらいだから。姑の話に拠ると、彼は変なものに好かれる性質なんですって」
彼はたぶん、あの老人に一杯喰わされたのだ。老人からすれば、騙すつもりではなく喜ばせるつもりだったのかもしれないけれど。
ところが、あの話を真っ向から信じているのは、旦那だけではないようだった。
「腐草為螢も、見えた人が居たのかもしれません。草が螢になるところを。あなたの旦那様のように、視える人だったのかもしれません。あなたはどちらなのかしら」
「わたしは視えませんよ」
わたしは顔の前で両手を振った。
「彼はああだけど、わたしは現実的な人間なんです」
「そういう意味ではなくて」
彼女は艶やかに笑った。
「あなたは最初から螢だったのか、それとも実は草なのかと思って」
彼女は、わたしが人間ではないのではないかと問うているのだろうか。冗談めかした物言いだったが、眼は笑っていなかった。
「人間です。最初から人間に極まってるじゃないですか」
わざと笑って答えた。人間でないなら何だというのだ。
「では何故、彼と結婚なさったんです? 現実的なあなたが、夢物語のような出来事を本気にする彼と」
「それは・・・・・・」
何故だろう。彼とは見合いで知り合った。当初からわけの分からない話を聞かされることがあり、とてもじゃないが、生活を共にできる相手ではないと思った。それなのに・・・・・・。
気をつけなさい。あの子は変なものに好かれる性質だから。
姑の言葉が頭を過ぎる。
いや、わたしは生まれた時から人間だ。人間でなかったはずがない。でも昔、わたしはどんな子供だった? 生まれた時の写真はあっただろうか。臍の緒は実家にあったと思うけど・・・・・・。
「遅いですね。すぐに分かると思ったんだけど・・・・・・。ちょっと見てきます」
答えられないでいるわたしを残して、女性は踵を返した。幽かな鈴の音を振り撒きながら歩み去る。
わたしは硬直したようにその場から動けないまま、後れ毛のなびく彼女のうなじを見送った。川のせせらぎに鈴の音が聞えなくなるまで凝っと。
一人で螢の中に取り残されて間も無く、旦那が帰ってきた。女性の姿はない。一人である。
「あれ? あの人は?」
「あなたを迎えに行ったのよ。会わなかったの?」
彼はこくりと肯いた。
「全然見なかったよ」
一本道なのにおかしいなぁと頸をひねっている。
螢を観賞しながらしばらく待ったが、彼女は戻って来なかった。
あの女性は先に宿に帰ったのかもしれないということになり、宿に帰って従業員に訊いてみた。
「紺地に山螢袋の着物のお客? そんな女の人は見らんだが」
温泉名の入った半被を着た、頭の禿げ上がった従業員は、頸をひねった。
「今日は平日で、泊り客もあんたらだけだけ、日帰りの人だろうけど、わしは見とらんなぁ」
他にも何人か訊いて回ったが、みんな同じ回答だった。
気になってもう一度あの場所に引き返したが、やはり螢がいるだけで、人の気配はなかった。
「川にでも落ちてるのかな」
螢の光が溢れる川を覗き込む。わたしは一人で旦那を迎えに行かせたことを後悔し始めていた。つまらない質問をまともに受け止めて狼狽していた自分が情けない。
「それはないよ。人が落ちれば大きな音がしたはずだから」
懐中電灯を探しながら旦那が云う。彼女を探しに出てくる際、後部座席に投げて来たのだ。
ところが、川べりに出てきた彼は、懐中電灯を持っていなかった。それどころか、もう帰ろうと云う。
「でも、あの人は?」
「きっと還ったんだよ、還るべき処に。後部座席にこれがあった」
彼の手には、一輪の山螢袋が乗っかっていた。手に取ると、袋状になった花弁の中から、彼女の簪に付いていたと思しき鈴が転がり出た。
旅行から帰って、姑に島根の土産を持って行った。あの翌日、宍道湖まで足を延ばして購った、蜆の佃煮である。
「なんだか、彼が変なものに好かれるって、実感した旅行でした」
旅行はどうだったかと訊く姑に、わたしは云った。旦那は仕事でこの場にいない。
「何か出たの?」
「着物美人が一人」
「いくら美人でも、物の怪の類じゃあねぇ。ま、でも、物は考えようね。あの子がああだから、あなたと一緒になれたのだし」
「それって・・・・・・」
あなたはどちらなのかしら。
鈴の音と共に、艶やかな笑顔が蘇る。
わたしの中に巣くい始めた懸念を知ってか知らずか、彼女はからりと笑って云った。
「ほらあの子、相手が何だろうがお構いなしなところがあるでしょう。だから、放っておくと人外の存在と婚約してくるんじゃないかと思って、早々に見合いをさせたのよ」
後日、実家の母から手紙が届いた。
掃除をしていたら、あなたが赤ちゃんだった頃のアルバムが出てきました。あなたの赤ちゃんの顔は、いつ見せてもらえるのかしらね。
了
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