|
カテゴリ:舞台
構成・演出・主演:野村萬斎による『マクベス』。
出演はほかに秋山菜津子----あの堂々とした姿は好きである、背も高いし-----と、 高田恵篤、福士恵二、小林桂太。 多くの役を3人が次々に換えて演ずる。 しかも上演時間ほぼ90分。 かなりコンパクトな「マクベス」 (役者の、舞台の、時間の、複数のエコノミーがはたらく)。 会場にはいると、すでにステージ上にドーム型のものがある。 これだけ見ると、ジンガロの『ルンタ』をおもいだす。 声----スピーカから立体的に----と光がおこり、 ドームのなかで萬斎が刀を振りかざすのが影としてみえる。 血らしきものをふりまきながら、やぶれがはいって、 このドームは地球をあらわしていることがわかってくる。 3人の魔女は当然男優が演じる。 それがいい。 しかもこの魔女たち、随所で笑うのである。 全篇、この笑いが、じつは悲劇でありつつ、 見方を変えると喜劇になってしまうということ、か。 打楽器的な音がしばしばひびく。 太鼓というのは、音楽になりそうでならない、なっていてちがう、 というものなので、より抽象的に舞台に聴覚的な効果をもたらす。 それ以外にはダルブッカなども。 2回か3回、バロック調の音型をピアノが奏でるところもある。 音響は、しかし、音楽にならずとも、 この『マクベス』全体に、かなりの意味=方向、あるいはきっかけを 与えるだろう。 忘れてはならないのは、モーターの音だ。 これが、一種、出現はしないけれども、デウス・エクス・マキーナ、 それも、「現在」のベルトコンベアを想起させる。 もはや神は登場しない。 むしろ、ぐるぐるまわるベルトコンベアにのせられて、 運命はめぐるのだ。 魔女たちの予言とは、単純に、プログラムの一部にすぎず、 あとは勝手にマクベスが自分ですすむばかり。 マクベスが果てた後、 ばらばらになったその身体を持ちあげてみる。 まわりはあかるくなり、小鳥が小さく鳴き、水のながれの音がする。 身体の部分を持ち上げると、花が咲いている。 全体にかなり様式性を感じてしまうのは、 人数の少なさと舞台=世界のありようのせいか。 この舞台からは「外」が想像しにくい、というか、 いや、たしかに「外」はあるのだけれど、 ごくごくふつうの「マクベス」のような、「外」につながっている感じがなく、 同心円的に、あるいは、トポロジー的になっていて、 遠心力がはたらかない、とでもいうか。 萬斎がやっているからではけっしてなく、 狂言をおもわせるのは、そういうところからだ。 それに、 冒頭と終りに「きれいはきたない、きたないはきれい」が反復されるせいもあろうか。 これは、しかし、わるい、ということでは全然ない。 観客は、この舞台=世界を「外」から眺める、神々のようなもの、となっている。 観客はひとりひとり、「マクベス」を、「マクベス」の世界を、 多分に客観的にみるだろう、 そして、そこにヒトの、欲の愚かさを、みるかもしれない。 あるいは-----愚かな神であるなら、みえないかもしれないが。 2010年3月18日(木)、世田谷パブリックシアター。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2010年03月20日 10時45分52秒
コメント(0) | コメントを書く
[舞台] カテゴリの最新記事
|