14。14。俗に「ひやかし千人、客百人、間夫(まぶ)が十人、色(いろ)一人。」と言われるほどに、遊郭は見かけは大勢の人で賑わっていても、実際に客として登楼するのは一握りでした。 <ひやかし>とは、吉原の大門が開いている間、自由にあちこちの見世をまわって、外から花魁を眺めて楽しんでいるだけの人々を指します。花魁が一番嫌がる<素見(すけん)>です。吉原には入場料が発生しないので、こんな人々がうろうろしていました。 <間夫>とは情人のことです。花魁の馴染みの中でも、特に金離れのいいお客を指します。お客のほうは「俺だけの花魁だ。あいつは俺だけが頼りなのだ」と思わされていましたが、そんなひとは実際には軽く10人はおりました。 <色>とは花魁が本当に惚れている男のことです。 いつの世も、ひとりだけ ということなのです。 卯の刻。大門の開く音で、夕映は目を覚ましました。 隣で寝ている馴染みのお客をやさしく揺すって起こします。 「もうすこし・・。」 お客はまだ寝ていたいようですが、幕府からの営業規則でお客は一昼夜以上はとどまってはなりません。 「向坂さま。」 馴染みのお客は花魁から名前で呼んでもらえます。 この向坂甚内と呼ばれた男は、夕映とはひとまわりの年の差がありました。 甲斐武田の武将で槍の名人と呼ばれた高坂弾正の子で、宮本武蔵の剣を学んで奥義をきわめたと聞きました。 お金離れのいい旦那ではありませんでしたが、向坂の体に刻まれた戦いの傷跡を行灯の明りで確かめるたびに、夕映は生きることはなんたるかを自分に問うのでした。 裸の向坂に着物を着せて、別れを惜しみます。 「いつ来て下さいますか。また修行のお話を伺いとうござります。」 向坂はそれには応えず、 「夕映。そなたは太夫になられるのか。」 「いいえ、俺はその器ではありません。」 「そうであろう。この見世の看板になるには度胸が必要。できることなら、このまま私がおまえをつれて帰りたいとさえ思うのだ。」 夕映は、ぎくりとしました。 何も期待していなかったのに、このお客は<身請け>を持ち出したのです。 松葉屋の店先では、からからと下駄の音が響いておりました。 大門までお客を送ってきた高尾太夫と遣手が談笑していたところに 「高尾太夫。ちょいと。」 高尾太夫は松葉屋の主人の部屋に呼ばれました。 花魁たちの部屋とは階を分けた座敷部屋に通されます。 床の間にはリンドウが活けてありました。 温厚な主人は高尾太夫の親と同じくらいの年代です。 「おまえさんは、そろそろ年季明けじゃないか?」 「そうですねえ。お世話になりまして。」 「達者で暮らせよ。」 キセルを取り出して、高尾太夫に渡します。 「吸わないんで?」 「辞めたんだ。どうも調子が悪くてな。はやり病でなければいいんだが。」 高尾太夫は何も言いませんでした。 主人の体の具合が悪いのは、明らかでした。 この当時<かさ>と呼ばれた病がありました。これに感染するとかさぶたのようなおできが感染部にできます。 おできはやがてつぶれて数日で収まるのですが、これで治りはしません。 何年かの潜伏期間を経て、今度は皮膚にゴム状の腫れ物が出来てその部分の肉が落ちます。やがて神経もおかされて死に至ります。 花魁が主にかかるこの病。病名は<梅毒>です。 主人は半年前にかさを潰していました。 その頃にこの松葉屋で、ひとりの花魁が発病したために吉原を追い出されていました。 よそでも、生きたまま投げ込み寺に捨てられた花魁がいたようです。 「人生は一度っきりですよ。楽しく生きてくださいな。」 高尾太夫は天井に乳白色の煙を昇らせます。 「その煙のように、人生が はかなくてもな。」 主人は、自分のことを悟っているようにも見えました。 「・・高尾太夫。相談があるんだ。おまえが出た後の、この松葉屋の看板をもたせる花魁だが。」 「あの子じゃいけませんか?」 片方の膝を立てたまま・けろりと答える高尾太夫に、主人も目をぱちぱちさせます。 「夕映格子かい。」 「器量がいいし、従順だし。」 「度胸はどうだい。」 「たいしたものですよ。」 司を封じたことは口には出しませんが。 微笑する高尾太夫に、主人も頷きました。 「そこまでおまえさんが太鼓判を押すのなら。この見世の命運を、夕映格子に任せようか。」 「いい子です。見世で支えてやってください。」 高尾太夫はゆっくりキセルを吸い込みました。言葉を飲み込んで隠しているように主人は思いました。だてに吉原の大見世、松葉屋を切り盛りしてはいません。自分にも覚えのある気持ちを隠している。まるで息子のような年の子が。 「おまえさんは、あの子が相当可愛いんだね。」 「ええ。・・そうですね。」 言葉を濁すには理由があるのでしょう。 主人は表情の変わらない高尾太夫を困らせてみたくなりました。 「花魁同士の恋はかつて聞いたことがないから規律はないよ。太夫。」 「それを言わないでくださいよ。いけずだなあ。」 白い歯を見せて笑う姿は、悪戯が見つかった子供のようにも見えました。 それ以上は聴くまい。野暮です。 主人は、進めることのできないことを知るからこそ思いを秘めた姿に、あっぱれと感心しました。 高尾太夫も、太夫の名を持つ花魁ですから。 仕事に徹するのが太夫の名を持つものの義務。 自分の後釜を慈しんで育て上げた。これ以上何を言えましょうか。 「夕映が昨晩に馴染みを捨てたと聞いたが?」 「ええ。丁子屋の直江のところに通いだした馴染みを、新造に連れてこさせたのですが。あの子はたいしたもので、 心変わりをしたひとを客とすることはできません。俺はあなたを外に突き出します。どちらでもおいでください。けれど夕映は客を金でよその花魁に売ったといわれるのは真っ平です。どうぞこれはお持ちください。 って。馴染みが差し出した10両の包みを突っぱねたんです。」 「ほお。」 「これであの子の評判は一段とよくなることでしょう。吉原の格式を守りながら、どう振舞えばいいか、あの子はわかってきたようで。」 夕映のことを大事に思っていることが、端々から伝わります。 主人は大きなため息をつきました。 「立派過ぎる。」 「あの子が不満ですか?」 「おまえさんがだ。そこまで仕事として線をひくこともなかろうに。」 15話に続きます。15話へ続くのでありんす。 一言でもいただけると励みになります。 WEB拍手を押してくださるとお礼がありまする。 |