23。23。「なにしてんだ、おまえら?」 薄暗がりの中に聞える高尾太夫の声に、霜柱は身震いを隠せません。 「すみません。支度に時間をとりました」 霜柱の詫びを見やると、視線は夕映に移りました。 「普通に横になれないのか。その着物を普段着にしてしまうには惜しいだろう」 高尾太夫は呆れています。 花魁道中で着る豪華な内掛けは着ると汗がついて染みになるので、一度きりの着用になります。あとはせいぜい普段着扱い。 しかし夕映は主役ではなかったので、おろしたてのその内掛けはまだまだ客の前でお披露目してもよさそうなものでしたが。薄暗がりでも見えるくらいに見事に皺ができておりました。 「帰るよ」 高尾大夫は襖に寄りかかりながら首を傾げます。 「歩けそうか?」 「はい、平気です」 夕映は内心落ち着きませんでした。何か問われるとばかり思っていたのに高尾太夫は何も聞いてくれません。 その思いは霜柱も同じこと。後ろめたいことは何もしてはいません誤解されても致し方ないはず、叱責されると覚悟していたのですが何も言われません。 その沈黙こそが夕映には<なんの関心もないのか>と感じるほどの残酷であり、霜柱にとっては<花魁に手を出したら弁解無用で罪にある>責めでした。 揚屋を出ると仲の町は提灯の明かりが頼りの夕刻です。がらんがらんと替えの下駄を履いて歩く高尾太夫は、たちまちお客の羨望を一気に集めております。「松葉屋の太夫ぞ」触れたくても商人にはかなわぬ高嶺の華。 「なんと麗しきことか」どこぞの武士風情も感嘆の声をあげます。 「いい見世物だなあ」 沿道の見物客の多さに楽しそうな高尾太夫。 「このまま見世まで何人ついて来るかな?」 面白がる高尾太夫とは逆に、夕映は沿道から時折聞える声に落ち着きません。 「綺麗なもんだ。伊達のお殿様が高尾太夫見たさに登楼されたわけだ」 「相手が伊達の大名では振れまいて。これで太夫も年貢を納めて、お殿様にお輿入れか?花魁たるもの、囲われて暮らすが華よ。これまでの苦界も贅沢暮らしで帳消しだ」 ぎゅっと瞳を閉じて歯を食いしばります。 離れたくない。このまま一緒にいたいのに。 高尾太夫が今日の初会のお客に攫われる予感がして、落ち着きません。 「俯くなよ夕映、これも顔見世だから」 高尾大夫が振り向きもせずに言います。 「この吉原で内掛けを着ている以上は張りを見せなさい。何があろうと感情を顔に出すな。少しでも早くここを抜けたいなら、そうしなさい」 そうではない。 そんなではない。 高尾大夫がいるのなら、この苦界に生きてもかまわない。 夕映は歩みを止めそうになります。 「夕映格子、」 霜柱が気づいて袖を取ります。 「すみません」 はたと我に返ったような顔つきでしたが、すぐに夕映は霜柱の顔を見て微笑みました。「平気です」 そのか細い声に、先を歩く高尾太夫の背中に向って言いたいことを言うべく息を吸い込みます。 「霜柱、その無様な殺気をおさめろ。話なら見世でいくらでも聞いてやる」 くるりと見返るその太夫は口元に微笑すら浮かべております。 「高尾兄さん」 霜柱は頭を押さえつけられたような錯覚を覚えます。 「夕映格子もしゃんとなさい。見世に着いたらこの道中を見ていた客に初会で呼ばれるだろうから、遣手のところに行きなさい」 いつもと変わらぬ優しい瞳の奥に何を隠していますか。 それとも何も隠してはいないのですか。 松葉屋の主人が大手を振っているのが見えます。やはり総仕舞なのに見世を開けておりました。お客の入りが良くて人手が足りないのでしょう、主人は高尾太夫たちに、早く早く!と叫んでいます。 「あはは。面白いな、主人が珍しく見世先にいる」 高尾太夫は夕映の腕を取ると、「行きなさい」背中をぽんと押しました。 「え、」振り返る夕映は、高尾太夫が霜柱に目配せしたのを見ました。 そのままふたりは雑踏にまぎれて姿を消してしまいました。 賑やかな仲の町の辻を西に折れて、角町を抜けた羅生門川岸にでるとお歯黒溝のせいか人影もまばらでした。このまままっすぐ歩けば花魁が願掛けをする九郎助神社が見えてきます。 2人のいなせな男は黙ったまま歩き続けておりました。揚屋から借りた提灯の灯りだけが頼りの暗い道。脚を踏み外せばお歯黒溝に落っこちるでしょう。 空に輝く星を見ることなく足元ばかり見つめていた霜柱は、いよいよ沈黙に耐え切れなくなり言葉を発しました。 「先刻は、」 その言葉に高尾大夫がちらりと霜柱を見てきました。 「あの子が誘ってしまったのか?」 「いいえ、そんなことはありません。それに元々、着物の乱れを直しただけで」 身の潔白を、と言うよりも夕映をとがめないか心配でした。夕映に対するいつもと変わらぬ接し方が、やけに気にかかるのです。しかし、高尾太夫は些細なことと決めてかかっていたのか、軽く頷いて 「霜柱、おまえはここ吉原で何がしたい?」 「何・・って、俺は丁稚です」 「たしかに丁稚だ。借金を返さないと自由は手に入らない。だけど。普通に働いていたらそうそうこの苦界を出れないことはわかっているだろう?それはいつまでも夕映が客をとるのを黙ってみているばかりか、客を取りつづけるように仕向けなくてはならない。それが霜柱の仕事だ。それが滞ればおまえも夕映も苦界を出られない。嫌な仕事だよ、誇れないかもしれないね。でもこの現状を打開して好転させるには、与えられた仕事をこなしていくこと。いいお客がいたら金を落としていくように、下ができたらよりよく自分が動けるように仕組みをつくる。そうしなければ這い上がれないよ。」 高尾太夫は淡々と話し出しました。 それは遊廓で看板を張る太夫の指南でした。 「あの子に惚れているのはわかる。でもそれだけでは苦界に飲み込まれる」 霜柱は高尾太夫が自分のことを心配してくれているのだと、気がつきました。 「霜柱、前にも言ったけれど俺はその恋は応援できない。おまえが断罪されるのを防ぎたい。苦界で傷を舐めあうように禁断の蜜を味わうよりも、共に苦界を出るのが利口じゃないか。夕映と組んで、早くここを出ることを考えろ」 「高尾兄さん、俺は花魁と通じたら命をとられます。でも兄さんは、花魁同士は、規律は無い。なのにどうして?夕映さんはあなたにあんなに焦がれているのに抱かないんですか?今日だってあの顔が涙に濡れてしまうのではないかといたたまれなくなりました」 「俺はあの子を抱けないよ。あの子は花魁、お客が抱く子だからね」 「そんな言い方は無いでしょう?仕込んだのは兄さんだ。欲しくて焦れた瞳はいつも兄さんを射抜くように見つめている。その表情を見るのは辛いんです」 思わず声を荒げてしまいました。しかし、 「欲しいと請われても、気乗りしなければ振れるのが花魁だよ。俺も花魁」 あくまで仕事としての考えで動く高尾太夫に、霜柱は憤りを感じます。憔悴しきったかのようにどっと疲れを感じました。声を荒げてしまうのに、この高尾太夫の態度には何も通じない様子。夕映のことを憎からず思っているだろうに、何ゆえ。 焦れた霜柱は、高尾大夫が夜空を見上げていることに気がつきました。 ここを出たいのは花魁なら誰でも同じこと。故郷を思わぬものはいない。 嫌な仕事、と珍しく胸のうちを呟いた。 それは今しか見ていないのでは生きられない。この先を見据えた太夫ゆえ、弱音も吐かずにここまできたのでしょう。 このひとは胸にたくさんのことをしまいこんでいる。 「花魁としてではない出会いなら、どうかしたかもしれないけれど。俺にはあのひとがいるからね、俺の半身」 「半身。<いろ>がおられるからですか」 「これでも操を立てているんだよ。俺は、あのひとじゃなきゃ嫌なんだ」 「どんな方か聞かせていただけないですか」 「お殿様にも言われたな。今日は2回目だ」 あははと笑うと、何も言いません。夜風にさらされたのは一瞬でした。 なかなか見せないこころを、どう聞けましょうか。また気まぐれを待ちましょうか。 頭ごなしに責めない姿勢に、霜柱はこのひとは感情があるのか?とかんぐります。 九郎助神社に着きました。提灯の灯りに照らされた小さな社殿。 「ここで願い事をすれば叶うよ」 「本当ですか」 「何事も信じることから始まるんだよ」 高尾太夫は言い聞かせるような呟きでした。 「霜柱、いい男になりなさい」 袂に入れていた小さな鈴が心地よく鳴りました。 24話へ続くのでありんす。 一言でもいただけると励みになります。 WEB拍手を押してくださるとお礼がありまする。 |