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2010.10.23
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カテゴリ:東北
場所や時代をこえて、巨視的に歴史の大筋を把握することが必要な場合がある。とくに東北を地域単位と捉えてその交流史を理解するには、文字通り主軸となる「道」の概要を掌握しなければならないだろう。

■参考 渡辺信夫編『東北の交流史』無明舎出版、1999年 より
 渡辺信夫「東北の交流史」
 熊田亮介「古代東北の海道・陸道」
 入間田宣夫「平泉藤原氏と奥大道の開発」
■本記事は4回シリーズとしています。
 東北の道 概説(その1 古代)(10年10月23日)
 東北の道 概説(その2 平泉政権と奥大道)(10年10月24日)
 東北の道 概説(その3 中世)(10年10月24日)
 東北の道 概説(その4・完 近世)(10年10月24日)
(なお、理解を深めるために上掲書中の図(街道図など)も引用させていただきました。図版等の直接引用は極力避けていますが、街道の状況理解のためどうしても必要になりました。)


1 古代の陸道

弥生・古墳文化の北上は、畿内を軸として東日本に「山道」「海道」の概念を生んだ。山道と海道の両者を進んで更にその奥(道奥)、と2通りの東北に達する道が次第に確定し、これを基に官道の「東山道」「東海道」が律令政府の下で設定された。

この官道を通して移住と文化流入が展開し、言語社会の変質を伴う新たな東北が築かれた。こうした時期に建てられ、京(奈良)、蝦夷、常陸、下野、更に海外の靺鞨国への里程を誌す多賀城碑の意義は大きい。

東山道は多賀城から胆沢城へ延長し、東海道は常陸から浜通りを北上した。さらに東山道は多賀城から出羽の雄勝城へ、また笹谷峠越えで出羽国に進み内陸から庄内に出て秋田に達する横断道も開かれた。

2 蝦夷の道

古代国家は多数の移民(柵戸)を組織的に送り込み、これを核に郡制施行地を拡大する方式で行われた。移民を中心に編成された辺郡(近夷郡)には、先住の蝦夷も組み込まれたが、蝦夷の集団性を生かして族長を郡司とする蝦夷郡も編成された。

辺郡(近夷郡)と蝦夷支配の拠点として城柵を造営するに際して、官道を整備した。官道は、城柵や官衙を結ぶ征夷の道である。733年出羽柵が秋田に遷置され雄勝郡が置かれるが、雄勝郡の維持は困難で、737年には多賀城と出羽柵の直通路を開くための大野東人の遠征がある。この目的が達成されたのは759年で、雄勝平鹿2郡と出羽柵に通じる陸路に6駅が置かれた。また、出羽国最上郡は道路険しく大河は急流であるが、遠征軍が通らねばならぬ要路であった。796年に伊治城と玉造塞間に1駅、804年に志波城と胆沢郡間に1駅が置かれるのも、征夷に伴う官道整備の一環である。また、常陸国から多賀城に至る海道諸駅の廃止など、官道の再編もあった。

官道はまた北方の珍貨を求める交易のルートでもあり、鉄などの物資の流入で蝦夷集団の政治的成長をも促した。

北海道を含む日本海沿岸の夷地は本来出羽国の管轄とされ、秋田城・雄勝城は辺郡(近夷郡)に組み込まれた蝦夷を含め多数の蝦夷の支配拠点であった。蝦夷支配の基本は、饗給である。

秋田城は9世紀後半には、野代村、上津野(鹿角)村など郡制施行の範囲を超えた夷地も城下に組み込んでいる。雄勝城は山北三郡を城下としたほか、陸奥国志波村を管轄した時期もあったらしい。雄勝城は「十道を承くる大衝」とされ、奥羽山脈を越えた陸奥にもルートが延びていたとみられる。

3 古代の海の道

縄文遺跡の三内丸山の出土品には、糸魚川産と思われるヒスイがある。北陸と北奥羽の海上または陸上の往来が想定される。また、奈良平安時代に入る頃には、北海道には擦文土器文化が発達し北奥に影響を与えていたが、津軽海峡は陸地を隔てる海ではなく、むしろ両者を結ぶ川であり、活発な両地の交流があった。

海や河川も古くから交流の道であったが、海運は輸送需要との関わりで考えるべきである。古代律令政府が定める公租米の輸送規定では、東北は出羽国からのみ認められていた。太平洋側は駿河国までであり、関東・東北の太平洋側の遠隔海運はまだ開かれていなかったのである。

日本海側の遠隔地間交流は早くから開け、すでに古代末期に確認されている北奥の津軽十三湊が注目される。西は北陸から北の蝦夷地に至る環日本海沿岸を舞台に、ときに海外との直接間接の交流で栄えた。やがて「廻船式目」の七湊である津軽十三湊、秋田(土崎)、今町(直江津)などの湊を結ぶ海運が、西国や北陸と東北を結ぶ太い交流の道となった。

4 阿倍比羅夫の道

越国国守の阿倍比羅夫の北征(658年-660年)は、蝦夷に対する貢納的支配の拡大を目的に、3年間に3度行われた。対象は秋田市以北の日本海側で、齶田(秋田)、渟代(能代)、津刈、渡島(北海道)の蝦夷である。ただし、津刈、渟代の蝦夷は北征以前に服属しており、齶田、渡嶋の蝦夷との間に戦闘があったわけでもない。既に7世紀前半には各地の蝦夷は古代国家と個別に接触し始めていたと思われる。

比羅夫の北征軍は660年、渡島で粛慎と武力衝突する。粛慎の古訓は靺鞨と同じアシハセで、蝦夷とは明らかに異なる集団である。北海道のオホーツク沿岸は4世紀以降独自のオホーツク文化が展開し、7世紀以降にはサハリン・千島まで文化圏が広がる。大陸北東部に由来するとされ、粛慎も大陸系集団であろう。交戦の結果、比羅夫はヒグマの皮などを献上させ、のちに、出羽国の納税の一部に組み込まれることとなる。北方世界の珍貨交易の道を開いたと言える。

出羽国も律令制に基づく国郡制が行われるが、秋田市以北の広大な地域は長期にわたって郡制を施行しなかった。蝦夷集団固有の社会を生かし、安定した交易関係を維持して珍貨を獲得するには国郡制支配が馴染まなかったと見られる。

5 渤海使の道

渤海国は旧高句麗遺民や靺鞨人が698年に建国した多民族国家で、のち唐に冊封されて渤海郡となる。727年高斉徳らが初めて渤海国使として出羽国に来着する。10世紀初めまで34回の国使来着があるが、9世紀以降は北陸以西が来着地であるのに対して、8世紀段階では14回のうち1例をのぞき北陸以東、しかも6回までが出羽である。

日本政府は773年に太宰府(筑紫道)に入るよう命じるのだが、出羽に入るルートは固定的なものがあったはずだ。出羽来着には、使節の殺害や略奪も頻発したが、それでも蝦夷地・賊地の出羽に来着を重ねた。また靺鞨部族の一つ鉄利人ら1100人が亡命集団として出羽に来着した(放還される)こともある。公的使節にも亡命者にも既知のルートがあり、そして秋田以北の日本海沿岸には多くの港津が存在し、受入れ先となっていたのである。

特に、771年に渤海使325人が来着した野代湊の機能は注目されるべきである。9世紀後半まで郡制が施行されないことも、軍事的性格と関係するだろう。

■「東北総合案内」さんのサイト中にも解説がある。
■高倉淳さんの説明 仙台周辺の古道、仮説玉野新道






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最終更新日  2010.10.24 13:35:12
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