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2011.03.05
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カテゴリ:宮城
仙台藩の財政構造について。土屋喬夫(『封建社会崩壊過程の研究』1927年)によると、萱場木工氏章『古伝密要』(寛政9年)に次のように著されている。
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元和偃武後も家臣リストラをしなかったことから、仙台藩は藩の禄高に比較して家臣の数が大かった。そして、支藩一ノ関藩田村氏に3万1572石余の知行を給し、御一門衆から諸士凡下、御扶持人にまで知行を給したので、その知行高合計は62万159石5斗になり、禄高を100石ばかり上回る計算になっている。

その他に玄米扶持方への支給分、御役料(職務手当)、御切米石(米でのボーナス)、御膳米(藩主と家族用の飯米)、御仏供米(仏事に供する米)、奥方女中渡の米、海上粮米(藩船乗組員航海中の糧米)、江戸御国御用穀(江戸屋敷の糧米)に昔から合わせて9万3千石と、御切米(ボーナス)の金銭支給分1万3千両が必要と見積もられている。年によって過不足はあれど、これらをどう継続するかが課題であった。

享保3年(1718)の調査で新田37万5823石4斗6升5合を藩の蔵入地とすることができたので、蔵入分から上記の御扶持方御用穀9万3千石分は間に合わせることができたが、それでも享保年間中10年間をみると年平均で10万23千石余りの物成(貢租)が得られてようやく間に合うことであって、これ以外の御公務御国用に関する御雑用については、御年貢、諸上納金、諸運上金を集めて、その頃までに7万両ばかり出て行っているとのことである。

この数字を見ればいつも歳入不足がはっきりしている。藩では百姓作徳米の購入独占による専売制ともいうべき買米制を実施し、民の継続的な再生産を第一にするとともに、第二に御公務御国用の不足分を補って支配を続け、連綿とやりくりしてきた。
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こうした歳入欠陥を抱えた財政のもとで、まとまった歳出がが臨時に必要となると、富商を御用商人として取り立てて依存するしかなかった。これは他藩でもあることだが、大藩仙台となればなまじの富商では対応できなかったことも事実である。

政宗は大坂冬の陣出陣の際に、京都の大文字屋宗怡から3千両の借金をして戦費の不足を補い、その後たびたび借り入れを行い2代忠宗の代には借金が8万9千両にのぼり、そのうち7万9千両を上納させたこと、さらに江戸上屋敷の作事費用や買米本金として11万両を上納させたことが萱場氏章『古伝密要』に明らかにされている(土屋前掲書)。この過程で大文字屋が仙台藩最初の蔵元になったとみることができる。

ほかにも、京都の阿形作兵衛宗珍-甚兵衛、江戸の海保平兵衛らが仙台藩の蔵元を務めたことがわかっている。三井家4代目の八郎右衛門高房が享保13年(1728)に著した『町人考見録』には、大文字屋奥州公に潰され今御扶持千石の家来なり、などと記されており、宗珍や海保も同様。仙台藩の蔵元を務めた富商が貸し倒れから破産の憂き目に遭い家臣に取り立てられたことを明らかにしている。

ほかにも、大坂の平野屋三郎左衛門、江戸の紀伊国屋九郎兵衛、中川作右衛門、宗屋与四郎なども仙台藩の蔵元を務めたことがあり、航路整備を行った江戸の河村瑞賢も一時仙台藩の用達を申しつけられている。

近世後期には大坂の富商升屋(山片)4代目の平右衛門重芳が宝暦年間に仙台藩が大坂屋敷を設けたときに調達金御用を務め、買米本金の調達に応じたことから関係を深める。重芳が相続した当時の升屋は没落寸前といわれたが、升屋の別家番頭升屋久兵衛の養子となった長谷川小兵衛の二男有躬が4代目升屋久兵衛となり、升屋番頭を努めて升屋小右衛門を名乗り、経営立て直しに成功する。この小右衛門が、文政3年『夢の代』を著した山片蟠桃である。

徹底した合理主義思考をもつ蟠桃(升屋小右衛門)は、主家升屋と仙台藩財政双方の再建のために、仙台藩産米の江戸廻送にあたっての条件として、1俵当たり1合の「差し米」を出願して認められる。差し米は、米質を吟味する時に「刺」という竹筒を作って俵から米を取り出すが、その米を升屋の取り分とすることを認めたのである。吟味は、仙台積出し時(石巻、荒浜)、銚子(利根川河口)、江戸(深川の仙台堀屋敷)の3か所で行われるが、そのたびに取り出される米が升屋の取り分となるから、廻送が多いほど利益も大きかった。

こうして正式に蔵元に就く以前だが、寛政3年、4年の仙台藩領の豊作で巨利を上げ経営基盤を確立し、寛政11年(1799)に正式に蔵元になった(土屋前掲書)。

その後、升屋は、文化5年(1808)に仙台藩領限り通用の米札(米切手・米手形)を発行するが、買米代金をこの一種の兌換紙幣で支払、升屋が扱った廻米を売った代金は金で受け取り、大坂で運用して利を生ませて、升屋と藩の利益をはかるというのが建前だった。たしかに升屋に大きな利益をもたらしたが、それで仙台藩が多いに富むに至ったようでもない(土屋喬夫)。升屋の米札は俗に「升屋札」と呼ばれた。要するに藩札である。升屋が蔵元を辞した安政3年(1856)以降も升屋札は償却されずに残り、明治5年の大蔵省布告で新貨幣と交換が布告されている。

升屋が差し米と米札で経営が順調に見えるのは、海保青陵(『稽古談』『升小談』)も紹介しているが、これも文政4年(1821)升屋小右衛門(山片蟠桃)が死去するまでである。文化14年(1817)に没した海保青陵は、小右衛門死去の後を知らないのである。

仙台藩は升屋を通して文化10年現在で大坂から20万両を調達し、その後も毎年4万両内外、多い年には5万両から6.5万両を買米本金として調達したほか、臨時的歳出の借り入れも行っていた。当然ながら藩の返済は滞りがちで、しばしば利下げや年賦償還協定が行われているが、やり手の小右衛門の生前中は何とか切り抜けていたものの、小右衛門死去後は、升屋の信用が低下した。利下げや年賦協定が始まると、それまでの升屋の好調が粉飾であるように大坂商人に見えたからであろう。

そこに天保の飢饉が到来した。天保7年(1836)には升屋では主人の平右衛門重芳が亡くなり、弘化年間には升屋を介した大坂商人の仙台藩への滞貸が100万両に達したと云われる。升屋は窮地に立たされ、新たな調達を渋るようになり、安政3年(1856)には、升屋平右衛門(5代目)、千葉屋、鴻池、山家屋、米屋、加島屋、早川など9人連名で、仙台藩財用方の熊谷純之丞及び三浦平介あてに滞貸返済の嘆願書を提出し、同年9月に升屋平右衛門は仙台藩の蔵元を辞任している(土屋前掲書)。

升屋は維新後、新政権に対して藩債償還運動を展開したが不成功、企業活動から撤退する。

升屋平右衛門が辞任した後仙台藩の蔵元を引き受けたのは近江日野出身の富商中井新三郎光基である。

■参考
 岩本由輝『本石米と仙台藩の経済』(国宝大崎八幡宮 仙台・江戸学叢書15)(大崎八幡宮仙台・江戸学実行委員会、2009年)

■関連する過去の記事
 仙台藩の経済と財政を考える(3 本石米と買米制度)(2011年2月20日)
 仙台藩の経済と財政を考える(2 仙台藩の歳入歳出)(08年1月3日)
 秋田藩佐竹義和の改革(07年12月21日)
 秋田藩佐竹義宣の改革を考える(07年12月19日)
 上杉鷹山の知恵袋 竹俣当綱(07年1月17日)
 仙台藩の経済と財政を考える(1 藩札)(06年07月25日)





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最終更新日  2011.03.05 20:05:56
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