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「あらたにす」という朝日新聞・日本経済新聞・読売新聞を読みくらべが出来るウェブサイトがあることをブログの友の「まゆはけ」さんから教えて貰って、毎日必ず覗くことにしている。私は読売新聞を購読しているが、同じニュースでも新聞によって、その取り扱いのウエイトが違ってなかなか興味深いし、無料でこれだけの情報が得られるのはなにより有り難いことだと感謝している。 このウエブの中に「新聞案内人」と云うコラム欄があり、これを読むのも楽しの一つである。 先日、歴史家で作家の書かれた「信玄兵法“五分勝ち”と民主党圧勝」と題する文が掲載されていた。 『合戦に思わぬ大勝をしたとき、信玄は喜ばず、むしろ暗い顔をした。周囲の者がそのことを尋ねると、信玄は答えて言った。 「五分は励みを生じ、七分は怠(おこた)りを生じ、十分は驕(おご)りを生ずる」』と信玄の言葉を借りて、勝ちすぎた民主党への戒めであった。そして最後に『さて、武田家ならぬ民主党は、国民の中にふくれあがった希望の大きさに、どこまで実行力がおよぶであろうか。 ゆめ、武田家の蹉跌を踏まないように』とあった。 ここから私の悩みが始まった。 『蹉跌を踏む』という表現が引っ掛かってしまったのだ。 蹉跌とは、失敗して行き詰まること、つまずくこと、挫折の意味であるが、『前轍を踏む』や『轍を踏む』は聞いたことがあったが、『蹉跌を踏む』は初めてお目にかかった言葉であった。 『轍を踏む』は云うまでもなく、転倒した前の車のわだちの跡を踏むと云う意味から、前の人の失敗を繰り返すことのたとえである。 『蹉跌を踏む』は以前に犯した過ちを繰り返すことを意味している様に取れる。 歴史家で作家である有識者が用法を間違う訳もなかろうとは思ったが、念のため辞書を引いてみた。しかしどの辞書にも『蹉跌を踏む』という表現が見当たらない。 それならと逆引きで『踏む』を調べてみた。 ・韻を踏む・お百度を踏む・前車の轍(てつ)を踏む・踏鞴(たたら)を踏む・どじを踏む・虎の尾を踏む・薄氷を踏む・塩を踏む・地団駄踏む・水火を踏む・駄目を踏む・土地を踏む・二の足を踏む・場数を踏むなどは出てくるが、『蹉跌を踏む』はやっぱり出てこない。 次にグーグルで『蹉跌を踏む』を検索してみた。 ところがブログやウェブサイトでは数え切れないほどこの表現は使われているではないか。 「それはかっての古代神話還元主義と同じ蹉跌を踏むことになるだろう」 「シチズン社も松下電器の様な、同じ苦い蹉跌を踏むのではないか」 「内心ではいつか蹉跌を踏むと読んでいた」 「再び相見える機会を得て、ライナーは同じ蹉跌を踏むか否か」 「若いと言う事は蹉跌を踏むことも多い」 「後々、同じ蹉跌を踏む事も避けられる訳だし・・・」 「法に抵触する場合は、極めて冷徹に、罪と罰が責任として圧し掛かることを知らなければ、人生の蹉跌を踏むこととなる」 「正式にやっていれば大きな蹉跌を踏むこともない」 「小泉はアジアにおける外交的ヘゲモニーの構築を期待されながら、逆に靖国参拝で蹉跌を踏む羽目に陥る」 「フクダ内閣はKY安倍内閣の蹉跌を、再び踏むことになる」。 「世界的なコンサルタントは大きな蹉跌を踏むことになる」 「天誅組は高取藩必死の防衛戦の前に惨敗し以後の行動に大きな蹉跌をふむことになりました」 ここでは中途半端なコンテクスト(文脈)の中でしか、使用例を挙げられないが『蹉跌を踏む』は「同じ失敗を重ねる」程度の意味に使われているようで、『轍を踏む』の「前の人の失敗を繰り返す」こととはニュアンスが違う様だ。 従ってこれは用法の間違いと云うより、ネットの世界でこれだけ出回っているところを見ると、知らなかったのは私だけで、すでに『蹉跌を踏む』は新しい言葉として市民権を獲得しているのかも知れない。 とは言え、『蹉跌を踏む』を堂々と使うことに、臆病な私はまだ二の足を踏んでいる。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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