Random Access Memories / Daft Punk
今回の56th Grammy AwardのAlbum of the year...このアルバムをどう解釈するかで、このアルバムが何故、受賞作なのかという事への感想の質は大きく大きく違うだろうと思う。話せば切りがないのだが、端的に言うならば...世界中のクラブ好きの女子高生とジョン・ケイジが肩を組み笑い合い、そのお互いの体躯の間に無数の音楽宇宙が広がっているイメージと言ったらいいだろか。または...空き缶からダイヤモンドまでの間の世俗的に高価値、無価値なものを、限りなく高いセンスでコラージュしたポップアートと言ったらいいだろか。少なくともこのアルバムが、真新しさのないマゼマゼ音楽だとか、欧米ポップスのトラッドの寄せ集めだとか言い放つ人間には、永遠に理解できない受賞だろう。おそらく、音楽をよく知る(識るではなく)年齢に上がれば上がるほど、その落とし穴に墜ちている事も気づかぬまま、老けた音楽感を熟練と勘違いして自己肯定するはずだ。それも自由だけど。ぼくなりのヒントを言うならば、冒頭のGive Life Back To Musicのシンプルな曲調とプロローグ的歌詞、ジョルジオモロダーのイタリア訛りのトークのフィーチャーから始まりモジュラーシンセ自体の存在を音楽にしてしまった曲、Touchという曲のシンガー選びから曲の構成、編曲、ドラマ展開、そして、その次になんのためらいもなくGet Luckyが弾け、Beyondの冒頭のオーケストラの音楽的コンセプトからあのビートが始まり、そしてその曲でのあの歌詞の意味合い。。。そしてラストのContactでの破綻。。。そして、明らかなのは、芸術的要素から批判の対象になりがちなチープな要素まで、このアルバムを構成する全ての音楽的なそれらは”確信犯的に”動員されている。。。。(おそらくメンバー二人以外の参加ミュージシャンは、説明がない限りは、最後の仕上がりまで、ここまでのコンセプチュアルな志は予想できなかったに違いない)なんせ「サウンド」や「曲」でアルバムを聴いているうちは、Album Of The Yearという「人間が本能から哲学的思考までを様々に巡らせた音楽の作品賞」だとは理解することは不可能な、まさに聴いている側の心の自由さと青年さ加減が試される作品だ。つまり「なんかいい」と思えず、ついつい文句が出そうなら「良くない」ではなく「わからない」と言っておいた方がよい作品でもあるだろう。まさに音楽はランダムに、どこからでもどんなジャンルからでもアクセスしてよい歴史、想い出、衝動の積み重ねの継続でしかない。。。し、人類の営みのなが〜い歴史の縮図でもある。なんかフォレストガンプの映画を思い出した。