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【場所】 上田カトリック教会聖堂( 【日時】 4月19日土曜日 【練習内容】 復活節第5主日~聖霊降臨の祭日までの 46 神の注がれる目は 130 主をたたえよう 112 主はのぼられた 69 神よ あなたのいぶきを 352 聖霊の続唱 信仰宣言(使徒信条) 他 【持ち物】 『典礼聖歌』『カトリック聖歌集』『典礼聖歌 合本出版後から遺作まで』 Last updated 2008.04.03 17:51:49
117 主は豊かなあがないに満ち 【解説】 詩編130は、回心の7つの詩編の詩編の中では、最も有名なものでしょう。ラテン語では、De Profundis で始まるもので、昔から、多くの作曲家によって、曲がつけられています。また、この詩編は、その内容から、死者のための祈りとしても用いられてきました。ところが、この詩編の自身については、背景となる時代や場所ははっきりとしていません。そのことは、また、この詩編による「深い淵からの叫び」が、時代や場所を越えて、普遍的な回心、神への立ち返りの祈りとされるゆえんかもしれません。 答唱句は、詩編唱と同じ歌い方がされるものの一つ(他に「神よ あなたの顔の光を」、「父よ あなたこそ わたしの神」)です。バスは、常にD(レ)で持続しますが、この、答唱句の確固とした信仰告白を力強く表しています。 詩編唱は、第1・第3小節の終止音の四分音符(主に「、」)が、その前の全音符から、2度高くなっており、第2・第4小節では(主に「。」)2度下降しています。さらに、各小節の冒頭の音が順次下降しており(1小節目=A(ラ)、2小節目=G(ソ)、3小節目=F(ファ)、4小節目=E(ミ))、文章ごとのバランスをとりながら、ことばを生かしています。 この詩編唱は、当初、『典礼聖歌』(分冊第二集=31ページ)で、旧約朗読後の間唱として歌われた「主よ よこしまな人から」(詩編140)に用いられていました。現在、『典礼聖歌』(合本)で歌われる詩編唱の第3・第4小節が「主よ よこしまな人から」の答唱句として、第1・第2小節が、同じく詩編唱として歌われていました。 「主よ よこしまな人から」が作曲されたのは、典礼の刷新の途上だったため、新しい詩編や朗読配分、などが確立したときに、この曲は使われなくなり『典礼聖歌』(合本)には入れられませんでしたが、新しい答唱詩編である「主は豊かなあがないに満ち」の詩編唱に受け継がれました。 【祈りの注意】 解説にも書きましたが、答唱句は、詩編唱と同じ歌い方で歌われます。全音符の部分は、すべて八分音符の連続で歌います。「豊かな」と「あがない」の間があいているのは、読みやすくするためです。また、「あがないに」と「満ち」、「いつくしみ」と「深い」の間があいているのは、楽譜の長さ(答唱句と詩編唱の)をそろえたための、技術的な制約によるもので、これら赤字のところで、息継ぎをしたり、間をあけたり、赤字のところを 主はゆたかなあがないに満ちー*|いつくしみふかいー* 答唱句は、詩編と同じく、八分音符の連続ですが、「主・は・ゆ・た・か・な・あ・が・な・い・に・満・ちー」のように 冒頭は、きびきびと歌い始め、1小節目の終わりで、rit. し、ほぼ、そのテンポのまま「いつくしみ」に入り、最後は、さらにていねいに rit. して終わります。全体は、P で、最後の答唱句は PP にしますが、それは、この答唱句の信仰告白のことばを、こころの底から、深く力強い、確固としたものとするためです。決して、 四旬節の主日も、第5主日となりました。第一朗読で読まれる、エゼキエルの預言、今日は37章が読まれますが、復活徹夜祭にはその前の36章が第七朗読で読まれます。福音はヨハネの中の有名な、ラザロの復活(正確には蘇生)が読まれ、まじかに迫った、洗礼志願者の洗礼の直前の準備となっていることが分かります。詩編は、最初にも書いたように、深い淵からの回心の叫びですが、それは、洗礼志願者と心を合わせた、わたしたち、すべてのキリスト者の叫びと言っても過言ではありません。この、詩編を味わいながら、洗礼志願者と心を合わせ、わたしたちも、復活徹夜祭に行われる、洗礼の約束の更新によって、新しくふさわしい心で、キリストとともに歩めるように祈りたいものです。 《この答唱詩編のCD》 「典礼聖歌アンサンブル」『聖週間の聖歌』〔在庫なし〕 【参考文献】 Last updated 2008.02.26 15:38:09
123 主はわれらの牧者 【解説】 詩編23は、牧者としたの神に対する信頼と感謝を歌った詩編で、牧歌的な美しい表現に満ちています。その背景には、死の陰の谷であるエジプトから導き出し、荒れ野で岩を割って水を与え、緑豊かな牧場に導かれた、また、エジプトと言う敵の只中で最初の過越しを祝った、というイスラエルの救いの出来事があるようです。キリストは、この詩編23とエゼキエル34章を、ご自身に対する預言とされ、「わたしは良い羊飼いである」(ヨハネ10:11)と仰っています。なお、5-6節は、天のエルサレムでの神の宴の預言とされ、感謝の祭儀=ミサの予型とも言われています。 答唱句の前半「主はわれらの牧者」では、主に旋律が高音で歌われ、とりわけ「主」と「ぼく者」では、最高音C(ド)が用いられて強調されています。後半の「わたし」は旋律がD(レ)、「とぼしいこと」のバスがB(シ♭)といずれも最低音が用いられており、対照となる信仰告白のことばがはっきりと表現されています。答唱句の旋律の音は、ホームページの「答唱詩編」でも触れたように、ミサの式次第の旋律の音で構成されています。詩編唱は17~18「いのちあるすべてのものに」と旋律、伴奏ともに全く同一で、わたくしたちを養ってくださる神という、詩編ならびに答唱句の主題にしたがって詩編唱でも統一がはかられています。 【祈りの注意】 答唱句は、この詩編の主題である、信頼・感謝を十分に表すように、雄大に堂々と歌いたいものです。しかし、そこで忘れてならないのは「主は」、「われら」、「ぼく者、「わたし」などのアルシスをしっかりと生かすことです。これが生かされないと信仰告白のことばが活き活きしてこなくなり、ひいては、全体の祈りがだらだらとしたものとなってしまうのです。「ぼく者」の部分は、やや、テヌート気味で歌い、このことばを自らのこころにはもちろん、聞いている人のこころにしっかりと刻み付けたいものです。また、「者」の付点四分音符はテヌートしたままのテンポで延ばしますが、「わたし」に入ったら、すぐに冒頭のテンポに戻します。そして、最後は、本当にわたしには何一つ不足していることがないことを表すように、rit. して終わります。特に、最後の答唱句はていねいに終わらせます。 詩編唱は、第一朗読のエレミアが預言したように、イエスの時代の牧者が、羊の群れ(イスラエル)を散らし、追い払うばかりで、顧みることをしなかったので、その有様を深く憐れんで、教えられたキリストを預言するものとして歌われ、この、テーマで第一朗読と福音朗読の橋渡しをしています。 技術的な注意ですが、詩編唱の4節の4小節目、「いきる」は楽譜の八分音符だけにしか字がありませんから、どちらも、八分音符一つだけで歌い、「いきーる」のように 第一朗読では、ダビデの召命物語が読まれます。エッサイの子どもたちからダビデを召しだす際に、神は、サムエルに「人は目に映ることを見るが、主は心によって見る」と忠告します。ダビデは兄弟たちの中で油を注がれます。ダビデの兄弟たちは、決して、主に、はむかうものではありませんが、詩編唱は、ダビデが油注がれ、その喜びのうちに皆が喜びの食事をしているように思わせます。 一方、福音朗読では、生まれつき目が見えない人が、目を開かれる、ヨハネの福音が読まれます。その中で、ファリサイ派の人たちから、目が見えるようになった理由を訊ねられた両親は、関わりになるのを恐れて「本人にお聞きください。もう大人ですから、自分のことは自分で話すでしょう」と言いました。これは、ファリサイ派に関わりになること、自分の息子に関わりになることもそうですが、イエスと関わりになるのを一番恐れたのではないでしょうか。イエスのいやしの出来事は、広く伝わっていたはずですから、知らないとは思えません。自分の子が、イエスに癒されたことで、自分たちも会堂から追い出されるのを恐れていたとも考えられます。 今日の、答唱句で、わたしたちは「主は、われらの牧者。わたしは乏しいことがない」と信仰を告白します。この告白が、わたしたちの生活、すべてにおいてなされなければ、わたしたちの告白は、口先だけのものであり、本当はキリストとの関わりを持ちたくない、この両親となんら、変わりないものになってしまうのではないでしょうか。わたしたちは、日々、こころから、神とキリストを頼っていれば、何も乏しいことはないはずなのですが。 《この答唱詩編のCD》 「典礼聖歌アンサンブル」『待降節・降誕節の聖歌』 【参考文献】 Last updated 2008.02.15 14:32:54 |一覧|Copyright (c) 1997-2012 Rakuten, Inc. All Rights Reserved.
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