受難の主日受難の主日から、教会の典礼は、一年の頂点である「聖週間」を祝います。このページでは、聖週間の最初の日である、受難の主日の聖歌を取り上げます。《主のエルサレム入城の記念》 【解説】 この日のミサの前には、受難の前に、主・キリストが群集に歓呼を持って迎えられた、主のエルサレム入城の記念が行われます。これには、次の三つの形式があります。 〔第一形式〕=行列 ミサの行われる教会から離れている小聖堂あるいは、他の場所に集まり聖堂まで行列を行う。 〔第二形式}=盛儀の入堂式 第一形式ができない場合、教会の入口かその近くから、荘厳な入堂を行う。 〔第三形式〕=簡単な入堂 その共同体の主なミサ以外のミサで行う。簡単な入堂。 第一形式あるいは第二形式は、その共同体の主なミサで、どちらかを一度だけ行い、他のミサでは、第三形式を行います。第一形式あるいは第二形式で行うミサでは、会衆および司式者と奉仕者が集まると、まず、315ダビドの 子(行列前)を歌い、続いて、枝を持った会衆を祝福します。その後、司式者は各年ごとに決められた「主の入城の福音」を朗読し、福音の朗読が終わると行列を始めます。行列の間、315ダビドの子(行列中)を、行列の長さに 応じて、交唱、詩編の節を選びながら歌います。行列が教会に入ったら316聖なる町に(行列の終わり)に移ります。この、行列が行われた場合、ミサは開祭の部分を省き、集会祈願から始めます。 第三形式の場合は、普段のミサと同じようにして、316聖なる町に(入祭唱)の交唱と詩編を歌います。この場合、ミサは通常どおりに行われます。 第一および第二形式の集会祈願、第三形式の通常の開祭、いずれの場合も、基音F(ファ)の1♭で始まりますが、315ダビドの子、316聖なる町にのどちらも、同じ1♭(F-Dur=ヘ長調)、旋律もF(ファ)で、終わっているのは、この行列あるいは入堂から、ミサへとの有機的な流れを考慮してのものです。 どちらも、複雑な和音は用いられていません。強いて言えば、316の1小節目と二小節目、それぞれの、二つ目の和音ですが、これも、イントネーションの関係上、前後の和音から経過的に用いられているものです。各小節、ことばの結びの部分は、それぞれ、大切な、また、強調したいことばがあることから、一つの音節に長い音価(二分音符ないし四分音符)が用いられています。とりわけ、双方の、三小節目(「天には神にホザーンナ」「ダビドの子にホザーン ナ」)では、エルサレムで、イエスを迎えた群衆の歓呼の叫びを高めるように、旋律では、最高音C(ド)、テノールでも、同じく最高音F(ファ)が用いられていますが、バスは、主音のF(ファ)にとどまったままで、この歓呼の叫びの力強さをしっかりと支えています。最後の小節は、旋律が音階で下降し、バスで最低音を用いることによって、曲の終止を表すとともに、「賛美」を静かに、しかし、荘厳さをもって語ります。 詩編の部分は、旋律がC(ド)→A(ラ)→B(シ♭)→G(ソ)と進行してゆきますが、これは、交唱の三小節目と二小節目の、骨格となる音と対称(シンメトリー)になっています。 【祈りの注意】 全音符で書かれているところは、「神よあなたの顔の光を」「主は豊かなあがないに満ち」「父よあなたこそわたしの神」などのように、すべて、八分音符の連続で歌ってゆきます。字間が開いているところは、楽譜を作成する際の限界、あるいは、読みやすいようにという配慮ですから、そこで、間をおいたり、延ばしたりすることはしてはいけません。交唱は、まず、語りかけるように、やや、早めに歌い始めます。各小節、最後の四分音符の前は、必ず二分音符分の音価が当てられていますから、この部分が各小節、一番大切なことばがあり、小節内の頂点もここに向けられていますので、この、二分音符分の音価+最後の四分音符が十分に生かされるように、rit. してゆきましょう。 全体では、三小節目に山があり、そこへ向かって高めて(cresc.して)ゆきますが、決して乱暴にならないようにしましょう。大声を上げるのではなく、胸を開いて声を大きく響かせるようにすることが大切です。詩編が歌われる場合、いずれも、この三小節目から詩編に入ります。詩編を歌い始めるテンポは、交唱の最初のテンポとあわせてください。詩編から交唱に戻った場合も同じです。 行列の終わり、1,2とも、「オリーブ」の前に息継ぎの記号「’」がありますが、ここは、その前の音の八分音符の中から、少し音価をもらって、さっと息継ぎをします。なお、「オリーブ」の「オ」は『典礼聖歌』(合本)では、F(ファ)になっていますが、「聖書と典礼」には、E(ミ)の楽譜が掲載されています。これは、作曲者による修正ですので、『典礼聖歌』(合本)を用いる場合にも、「聖書と典礼」の音に合わせてください。 ところで、「行列の間、行列中1と行列中2の両方を歌うと、行列より長くなってしまい、どうしたらよいのか?」という質問をよくききます。もともと、この交唱は『ローマ・ミサ典礼書』の規範版にあるものを、そのまま用いたもので、これはヨーロッパの大聖堂や大修道院が基準に作られています。ですから、日本の多くの小教区のように、敷地も聖堂も、さほど広くないところでは、全部を歌うと、行列は終わっているのに、歌は延々と続くことになってしまいます。典礼に基本は、祭儀の信仰にあわせて歌うものです。行列が長くない場合(それがほとんどだと思いますが)には、詩編を適切に選んで、行列の長さにそろえてください。行列中1と行列中2のどちらかだけでも足りる場合には、隔年ごとに交唱を歌い替えて行くのも一つの方法です(たとえば、奇数の年は行列中1を、偶数の年は行列中2を、というように)。行列が少し長い場合には、行列中1、行列中2からそれぞれ、いくつか詩編を選ぶこともできるでしょう。 同じように、よくある質問が「どこで、行列の終わり、にへ入ったらよいのか?」というものです。『ミサ典礼書』の典礼注記には「行列が教会に入るとき次の応唱(中略)を歌う」とありますので、おおよそ、司祭が教会へ入ったら、行列の終わり、に入るとよいでしょう。この場合、聖歌隊の指揮者ないし先唱者が、全員に合図することが必要になります。行列中1と行列中2の両方を歌うところでは、行列中2の最後の詩編(5)を歌ったら、次は行列の終わりにを歌う、と決め、毎年繰り返すと、定着すると思いますがいかがでしょうか? 最後に、これらの詩編唱ですが、答唱詩編ではありませんし、交唱を歌う人数も多いことや、場合によっては、教会堂の外から行列を行うことも考えると、ソリ(複数)で行うのがよいと思います。聖歌隊がしっかりしているところは、ソプラノの一部(あるいは全員)、またはテノールが先唱するとよいでしょう。とりわけ、男声の先唱は力強さがあります。聖歌隊の人数が少ないところ、聖歌隊がないところは、普段、答唱詩編を先唱する方が、数人、固まって、先唱すると、ばらばらにならずにすみます。いずれにしても、その共同体で、状況が異なりますので、それぞれに、工夫してみてください。 【参考文献】 『ミサ典礼書』(カトリック中央協議会 1978 ) 《答唱詩編》 【解説】 この日の、答唱詩編は、各年共通で176「わたしの神」が歌われます。ここで歌われる詩編22は、基本的には、嘆きの詩編に属していると言えるでしょう。前半(1-22)で詩編作者は、その苦悩を神に訴えます。後半(23-32、32「神に向かって」参照)は、救いを得た作者が神殿で感謝をささげる誓いです。答唱句で歌われる、2abは、イエスが十字架上で叫んだことば(マタイ27:46)で、ヨハネ福音書19:24では、預言の実現として詩編の19節が引用されています。また、この詩編は、イザヤ52:13-53:12の「苦しむ主の僕の歌」にも類似しており、この詩編が、メシア(キリスト)に関連するものであることを示していると言われています。 なお、この詩編22については、K.H.ワルケンホースト『詩編22の祈り-詩編の神学-』(サンパウロ 1990 )をぜひご一読ください。 答唱句は、伴奏が旋律だけで始まり、各声部も調性を決定する第三音を欠くことで、主キリストの十字架上での、叫び声を体現しています。二回繰り返される「わたしのかみ」は、他の声部が付点四分音符で延ばす間、テノールだけが、四分音符で係留音を歌ってから、第三音へ解決することで神に対する叫びを効果的に演出しています。二回目の「わたしの神」は、旋律が2度上がり、バスが2度下がることで、繰り返しの効果を高めています。 後半の「どうしてわたしをみすてられるのか」は、旋律が和音構成音となるG(ソ)を含んで6度上行して、最高音のB(シ♭)へ達し、さらに、叫びを高めています。また、テノールが「どうあいて」から、G(ソ)を持続し、この叫び声を支えています。バスでないのは、この叫びが、男性の高い叫びだからでしょう。答唱句の最後は、D(レ)-G(ソ)-D(レ)-A(ラ)という《雅楽的な響き》で終止します。答唱句が、締めくくられる場合には、この響きが、「みすてられるのか?」という、主キリストの疑問の叫びの余韻を残す効果を高めています。詩編唱へ続く場合には、バスとアルトでD(レ)が継続します。 詩編唱は、D(レ)から始まった旋律が、いったん二小節目でD(レ)に戻りますが、ここでは、和音も答唱句の終止で用いられる《雅楽的な響き」となっています。後半は、やや高い音で歌われ、四小節目はF(ファ)を根音とした、長三和音で終止しています。これは、詩編唱の前半が従属、後半が主題、という関係に対応しています。 【祈りの注意】 この答唱詩編は、今日の第一朗読のイザヤの預言50:4-7「主のしもべ第三の歌」を受けて、受難朗読で語られる、主キリストの叫びの予型として歌われますから、答唱句は、かなりドラマティックに歌いましょう。二回繰り返される「わたしの神」は、息継ぎをしないで歌います。最初は難しいかもしれませんが、慣れてくればだんだんとできるようになるのではないでしょうか?「わたしのかみ」を延ばす間は、少しですが、cresc. すると、この叫びを高める効果があります。さらに、その最後は、一気に dim. すると、その効果はより大きくなります。 「どうして」の上にある accel. は「だんだん早く」という意味です。「どうしてわたしを」に向かって、早くすることで、ことばの持つ切迫感が高まります。「みすてられる」からは、だんだんと rit. してゆきます。このrit.は「られるのか」の上辺りにありますが、ここで、rit. し始めるのでは遅すぎますから、「みすてられる」くらいから、少しずつブレーキをかけるようにしましょう。 答唱句をドラマティックに歌うには、さらに、行うとよいことがあります。一つは、楽譜にも書いてありますが、「×」の無声音を生かすことです。無声音は、行わない地域もありますが、ここでは、ぜひがんばってください。もう一つは、「わたしの」「かみ」「どうして」などの子音をかなり、はっきりと歌うことです。これは、詩編唱でも同じで、「あざ笑い」「ののしって」などを、はっきりと歌ってみてください。答唱句も、詩編唱も、のっぺりと歌うと、メリハリのないものになってしまいますので、気をつけてください。そして、これらを行うことは、歌をよくするだけではなく、祈りを深め、こころを神に高めるために行うことを、くれぐれも忘れないようにしましょう。 詩編唱の長いところは、途中で息継ぎをしてもいいですが、その他、字間があいているところは、必ずしも、延ばしたり、間をおいたりするものではないことは、答唱詩編の基礎のところでも、書いたとおりです。 最後に、この詩編を歌ったキリストは、絶望の叫びとして、あるいは、敗北のしるしとして歌ったというものがありますが、当時のイスラエルの習慣では、「詩編の一節を歌うことは、その詩編すべてを祈ること」でした。ですから、十字架上でこの詩編を祈ったキリストは、この詩編すべてを祈った、すなわち、「わたしの魂は必ずいのちを得る」(30節)ことを、確信して祈ったということができるのです。 【オルガン】 答唱詩編の原則であるフルート系のストップで伴奏します。会衆と同じように強弱を付けたいときには、主鍵盤も、シュヴェル(Swell)も、ともにフルート系の8’にしてコッペルし、主鍵盤で答唱句を弾き、シュヴェル(Swell)の扉を操作します。詩編唱はもちろん、シュヴェル(Swell)で弾きます。最後の答唱句は、シュヴェル(Swell)だけで弾いてもよいかもしれません。人数など、必要に応じて4’を加えるとよいでしょう。 【参考文献】 『詩編』(フランシスコ会聖書研究所訳注 サンパウロ 1968 ) 《詠唱》 【解説】 受難の主日の詠唱は、317キリストは人間の姿で が歌われます。この詠唱は、使徒パウロのエフェソの教会への手紙2章6-11節によっています。この部分は、パウロがヘレニズム(ギリシャ系)教会で用いられていたキリスト賛歌に、パウロの神学を加筆して書いた、ケリュグマ(宣教・説教)です。古代の宇宙論では、人間は宇宙の諸力(聖書的・パウロ的な言い方をすれば罪と死)に捕えられていると考えられていました。それに対してパウロは、キリストはそのような諸力のもとに捕えられていなかったが、人間を救うために自らそこに降り、人間をその諸力の隷属から解放するものであることを述べようとしたものです。と、同時に、キリストによるこの解放は、神が人間の姿を借りて地上を徘徊するような、いわば、仮現説(キリスト仮現説=キリストは、まことに人間になったのではなく、人間に見えたに過ぎない、という説。キリストの神聖を協調するあまり人生を否定したもの)的な救済神話ではなく、まことの神であるイエスが、まことの人間となり、なおその上に、十字架という罪人に数えられたことで、もたらされたことを教えようとしています。 この賛歌の直前の箇所、2章3-5節では「何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分より優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスについてもみられるものです」と言われています。実は、ここに、パウロがこの賛歌で伝えようとしたもう一つの大事な教えが示されています。すなわち、「人の子は、仕えられるためではなく、仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来た」(マタイ20:28 マルコ10:45)と言われ、十字架の死の瞬間まで神に従順だったキリストの生き方を模範として生きるようにと教えています。へりくだって、互いのことを心がけるということは、自分の救いのためではなく、すべての人の救いのために生きた、キリストに従って生きること、別のパウロのことばを借りれば、「もはやこの身に生きることなく、キリストによって生きるため」(ガラテア2:20、390「キリストのように考え」参照)なのです。それは、また、単にキリストを模範とすることではなく、キリストに結ばれることにより「キリストによって、キリストキリストとともに、キリストのうちに」キリストの生き方を実行するように教えているのです。 また、「へりくだって、死に至るまで、従順であった」ということは、キりストが、苦しむ主の苦難の僕であること、「彼が自らをなげうち、死んで、罪びとのひとりに数えられたからだ」(イザヤ53:12)という、預言のことばが成就したことを示してもいるのです。 「高く上げて」ということばには二つの意味があり、一つは「十字架に上げられる」、もうひとつは「父である神のもとに上げられる」ことで、キリストは十字架に上げられることを通して(死と復活を通して)、人類を罪と死からあがなわれ、それゆえに、神のもとに上げられ、すべてを治められるのです。(この、「高揚としてのイエスの復活」については、ヴァルター・カスパー『イエズスはキリストである-現代カトリック・キリスト論概説』(犬飼政一訳 あかし書房 1978 )の第二部・第七章の二を参照) この賛歌も含めて、聖書の至るところで、「名」ということばが出てきます。ここの賛歌では「すべてにまさる名」とありますが、この「名」はその人(あるいは神) の本質、実体と深く結びついているもので、呼ばれるものの本質を表すものです。人間で言えば、その人の人格そのものを表す、その人の一部分です。日本語でも「名は体をあらわす」と言います。「すべてにまさる名」とは、単に、名前の比較ではありません。それは6節にある「神の身分」「神と等しい者」なのです。 この詠唱は、聖書の底本ではなく、『ローマ・ミサ聖歌集』(Gradualre Romanumu)の規範版(グレゴリオ聖歌のChristus factus est)から訳されていますので、聖書本文とは、少々ニュアンスが異なっています。 調号は2♯ですが、作曲者も書き記していることですが、h-moll(ロ単調)ではなく、E(ミ)を主音とする、教会旋法の第一旋法で書かれています。全体は、二部で構成されています。「従うものとなった」のあとが、複重線となっていることからもわかります。ここまでは、聖金曜日の「朝の祈り」と「晩の祈り」の答唱としても用いられることから、このようになっています。聖金曜日の「朝の祈り」と「晩の祈り」の答唱では、ここまでで終わります。 「人間の姿であらわれ」と「高く挙げて」で最高音H(シ)になりますが、これは、キリスト仮現説を否定し、まことの神であるキリストがまことの人となったこと、また、これもパウロの神学である、高揚のキリスト論(挙げて=十字架に挙げることと、天に上げることを表す)を表しています。反対に、「自分を低くして」は、この賛歌の旋律で最も低いD(レ)となっています。 この詠唱が歌われるとき、福音書の朗読は、必ず受難朗読となり、通常行われるあいさつ「主は皆さんとともに」「また司祭とともに」がありません。この、詠唱が2♯のE(ミ)を主音とする、教会旋法の第一旋法なのは、式次第が、1♭基音F(ファ)⇒主音d(レ)〔d-moll(二短調)〕⇒同じ主音⇒D(レ)〔D-Dur(二短調)〕⇒教会旋法の第一旋法でこの詠唱となります。あいさつが行われませんから、それほど、調性には影響されないですが、栄光の賛歌と同じ調号ですから、やはり式次第との関連が考慮されていると言えるでしょう。 【祈りの注意】 パウロのキリスト賛歌ですから、重厚にゆったりと、しかし、だらだらしないようにしましょう。冒頭は、mp くらいから始めましょう。すぐに「人間の姿で現れ」という、最初のポイントになります。最初の重要な神学的なポイントですから、十分に rit. および cresc.します。ですが、続く「死に至るまで」で、すぐにテンポを戻してください。ここは、いくぶん、早めに歌うとことばが生きてきます。「しかも」、「自分」、「従うものと」の前に、八分休符がありますが、これは、アウフタクトを生かすばかりではなく、全体のリズムやテンポも左右するものですから、きちんと取って、アウフタクトを生かすようにしましょう。「自分を低くして」からは、キリストの従順を表すように、p に、前半の終止ですから、豊かに rit.してください。「それゆえ」からは再びテンポを戻し、「高く上げて」で再び十分に rit. および cresc.しましょう。「すべてにまさる名を」は、テンポを小戻しにし、祈りの結びでもあるので、rit. しますが、強い精神の p で終わります。 解説でも書いたように、この詠唱は、古代教会のキリスト賛歌に、パウロが自らの神学を加えたものが、現代まで受け継がれてきたものです。それはまた、キリストの受難と死と復活を通して神がなされた救いのわざを、まことの救い、人類あがないの神秘として認め受け入れるように、との、宣教のケリュグマでもあるのです。まことの神であるキリストが、まことの人となったことを信仰告白するこの詠唱(賛歌)を、そのこころなしに歌うことは、パウロの神学はもちろんのことですが、作曲者の意図も無視するものなのです。 ジャンル別一覧
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