特攻隊
今日読んだ本のなかで、特攻隊にふれていたものがあった。なるほどと思ったのは、特攻隊が導入される時点で、日米の作戦遂行能力は絶望的なまでに質の面でも、量の面でも開いてしまっていたということ(たとえば日米の第一線空母の艦載機定数を比較しても、日本の231機にたいしてアメリカは1339機)。つまり、日本がいくら戦闘機を飛ばしても、アメリカのレーダーと高速の戦闘機につかまって、何の成果もあげることなく撃ち落されるだけの段階にいたっていたということ。それならば、理性ある指導者は、当然戦争を止めるべきであったろう。このこと1つとっても、いかに当時の日本の指導部が異常かつ無責任な状態に陥っていたかがわかる。ある折に、元特攻隊員の方のお話を聞く機会があったが、「お国のためになどという潔いものではなかった。特攻が決まった者は、先輩の言うことは絶対という風紀のもと、後輩をなぶり殺しにしたり、日本刀をもって半狂乱になって暴れる者までいた」と語っておられた。自我を確立した人間が、「自死の選択を強制される」ことがいかに過酷なことか。先の本で執筆者は、「近現代の戦争において、命令によって、兵員が確実に死ぬという戦法を大規模に実施した国はない」という。「確実に死ぬ」状況をつくりだした制度、構造はなんだったのか、探求し続けなければならないと思う。