これから展開する話は、天皇は中央アジアからやって来たとする私のファンタジーである。
神道行事のなかには、なんとなくユダヤ教を連想させるような言葉が散見される。今回は田植えに関する祭りに見られるユダヤくさい掛け声である。
南里空海『伊勢の神宮』(世界文化社)によると、
神田祭場で御田植初が終わると、神田の近くにある田の守り神・大土御祖神社(神宮の摂社)に向かう。恵比寿・大黒の大団扇を持った奉仕の人が大土御祖神社の神前で、稲作の一連の所作を模した田舞をする。「ハエャーハエ、ハエャーハエ」と、稲が早く育ち、豊作でありますようにとお囃子が入ったり、重そうに俵を担いで、しかもよろけて豊作を表現する動作などをして踊っていく。(p.74)
また、矢野憲一『伊勢神宮 知られざる社のうち』(角川書店)でも、
田のなかでは恵比寿・大黒の大団扇を合わせる行事などがあり、田植えが終わるとハエヤーハエ、ハエヤーハエと囃しながら近くの摂社の大土御祖神社に向かい、豊穣を祈る踊りをする。(p.78)
このお囃子は、ヘブライ語で解釈できるのではないかと思う。『旧約聖書』士師記8:19やサムエル記上25:34などに出てくる誓いの決まり文句「主は生きておられる」は、そのまま「ハィ-ヤハウェ(
)なのである。(ユダヤ人たちはYHWHをヤハウェとは発音しないが。) そして、現代日本人もその意味がわからないので、「早え~や、早えぇ」という意味だろうと勝手に意味づけているのではなかろうか。
伊勢神宮のもう一つの御田・
伊雑宮の御田植祭についても気になるところがある。そこに出てくるエブリは、もともとイブリ(
;ヘブル人,ヘブライ人,すなわちユダヤ人のこと)だったのではないかと想像させる。‘ibri →‘ebri → Eburi と音韻変化していったと思われるのである。エブリは農具の名称だが、いつもヘブル人が持っていたからやがてその道具をエブリと呼ぶようになったと考えることができる。また、彼らの使う「太一」という団扇も、これが天の神や至高神を意味しているとすれば、いかにもユダヤの神を連想させる。
再び南里空海『伊勢の神宮』を引用する。
伊雑宮の御料田は十六・四三アール。御田植式は「おみた」と呼ばれ、毎年六月二十四日に行われる。この「おみた」は地元・磯部町の七つの地区が、毎年交代で担当するという当番制で行っている。七年に一回ということで、担当する地区は力が入り、特にこの日、赤、紫など派手な色彩の衣装を着て主役を務める子供たちは、当日に備えて一か月前から、式三番をはじめ田楽などの稽古に入るという。そして前々日の二十二日、「大馴らし」という総稽古も行われる。
二十四日の「おみた」の当日、午前十一時に伊雑宮に参拝し、その後、神職のお祓いを受ける。それが終わると、早苗(を先頭に御田に向かう。その順番は、エブリ二人 (T字型をした田ならしの道具を使う人) 、タチド四人 (早乙女(と田植えをする人) 、早乙女六人、ササラスリ二人 (少年)、太鼓打ち一人 (女の格好をした童子) 、笛二人、オド (大鼓) 一人、コド (小鼓) 一人、謡六人、地下の役人たち、という順に神田へ向かう。神田までの道の両側には、お祭り独特の露店が並び、綿あめやおもちゃ、トウモロコシの焦げる匂い、呼び込みの声……、懐かしいお祭りの光景と匂いが広がっている。
神田に着くと、まずエブリが田をならす。タチドと共に六人の青年は早乙女六人と交互に手を取って苗代を三回巡る。それから、苗取りが始まる。同時に、神田の中では、褌ひとつの若者たちが泥を投げたり、相撲を取ったり、と、全身泥だらけになっている。苗を取り終わったエブリは田の周りに立ててある竹に笹が付いた、「太一」の文字と宝船が描かれている大きな唐団扇をゆさゆさと神田に倒し、泥んこの若者は競ってその唐団扇を目指し、その唐団扇を破って紙を奪ったり、竹や笹を持ち去る。この破った団扇の紙や青竹、笹は海上安全・大漁のお守りとなる。これを「竹取の神事」という。
この神事の後、早乙女の田植えが始まる。その間、太鼓を打つ女の子の着物を着た童男が回船に乗り、その両脇にササラスリが立ち、オド、コド、笛も立って奏でる。高砂、羽衣などの小謡も始まる。田植えも半ば終わると中休みをして、残りはまた、ササラスリの男の子が歌って再開される。御田植えの最後は、神田から露店の前を通って境内まで、約二百メートルを「踊り込み」といって、およそ二時間掛けて踊っていく。お祭りは夕方まで延々と続く。
伊雑宮の御田植え神事に「太一」と書かれた大きな団扇が、目を引いた。あるいは、御田植初に「大一」と染め抜かれた法被姿も見受けたが、これは神宮を代表するマークだとお聞きしたことがあった。この「太一」の意味を知りたいと思っていた。神宮の元禰宜の矢野憲一氏は中国の影響を『伊勢神宮の衣食住』の中で次のように書かれている。
「中国の古い文献によれば、「太一」「大一」の区別はなく「大」は人の正面形に象り、オオキイ、サカン、スグレル、太はオオキフトイで、物のはじめ、おおもと、高い尊称にいずれも用いられ、大の上に頭部を示す円を加えて天という字ができ、太の点を上に付けても天となり、大一も天の意に通じる。古代中国には太一神というのがあり、この神は天地すべての至高神とされていた。そして、“太一陰陽五行思想”が生じるが、思想として成立する以前に宗教的な儀礼として古くから、この天神は祀られていたであろう (略) 」
奈良時代にこの中国の思想が入ってきたとき、これはわが国の天照大御神と同じではないかと、太一を神宮は使用したのではないかと矢野氏は指摘している。現在も、神宮司庁では、造営のシンボルマークだと説明をしているが、「大一」と書いてあると神宮御用ということになる。「太一」も「大一」も「最高のもの、天上天神の名前、大一神、最高のもの」という意味で伊勢の神宮は最高である、天下に二つとないというところから、この「太一」も「大一」も使っているのではないだろうか。
神宮の神田で見ることのできない、ローカル色豊かな、人々の思いのこもったお祭りに、村の鎮守の森のお祭りを思い出す。
伊雑がどうして「いざわ」と読むのか知らないが、「いざつ」のツがもともと促音(っ)だったならば「イザ」となり、これは預言者イザヤなど「救い」を意味するヘブライ語とも考えられる。(イザヤのヤはヤハウェのヤである。)
さて、ヤハウェ神官とも想像できる神八井耳命の子孫は、多氏、太氏、大氏、意富(おほ)氏、飫富(おほ)氏などである。数回前に私、「意富」がもともと“Yakhu”または“Yokho”などと発音されてヤハウェを意味したのではないかと述べた。そして、神八井耳命の子孫の氏から考えて、ヤハウェが「太」や「大」で表現されることは十分ありうるのではないかと思うのである。ヤハウェは偉大というイメージがあるだろうから、その意味でもふさわしい。そうすると、伊雑宮の御田植え神事で用いられる「太一」や「大一」もヤハウェを意味していたのかもしれない。
だが、ユダヤ教にこのような祭りはないので、少なくとも、古代イスラエルの先住民であるカナン人の祭りか何かと混交したものと考えなければならない。
ただし、彼らの熱狂を連想させるものならばある。それはダビデが主の箱を自分の町に運び入れた状況であり、サムエル記下6章に記述されている。「ダビデとイスラエル全家は、歌を歌い、竪琴、琴、タンバリン、カスタネット、シンバルを鳴らして、主の前で、力のかぎり喜び踊った」(サムエル記下6:5)のであり、田植えではないのでさすがに泥んこまではならなかったが「裸になって」(サムエル記下6:20)踊ったようである。
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