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午後3時頃に野崎港に入港、それから標高300m越えの山頂を経由して約3kmとなる、野崎島の北方に鎮座する「沖之神島神社」への起伏のある山道は、なかなか厳しい道程であった。 当日の日没は午後6時30分頃なので、足元が見えづらくなる午後7時頃までには、出発地の港近くにある当日の宿泊地「野崎島 自然学塾村」に向かう予定だった。 少し寄り道をしたこともあり、午後5時頃に目的地に到着、当神社の社殿横から御神体の「王位石(おえいし)」を見上げて映したものが上の画像である。 その整然と組まれた磐座の恐ろしいほどの貫禄に圧倒され、心中に感動の渦が怒涛のように巻き起こった私は、更なる一体感を求めるべく急斜面を登り、「王位石」の裏手に向かうのだった・・・。 そこで上の画像は、その山の8合目付近にある巨石磐座の裏手から、西方の海側を展望したものである。 野崎島を紹介するサイトによれば、この巨石の組み合わせからなる磐座は、その高さは約24m、両柱の端から端までの幅は約12m、そして頂上テーブルの広さは約5m×3mという、とても大きな石組みと記される。 自然の産物か、人の手によるものか、その成り立ちは謎に包まれているとされるが、実際に現地を体感した私の見立ては、明確に人の手が掛かった人工の石組みという判断である。 もしこの「王位石」の構築に関わった人がいるとするなら・・・今から1万年以上前の重力が軽かった時代に、身長が3m以上の人型生命体が関与したと思われる・・・などと、私の妄想の翼は大きく羽ばたくのであった。 そして上の画像は、この巨大な石組みの真下から社殿の屋根越しに、向かいの「小値賀島(おぢかじま)」を展望したものである。 少し歴史を調べてみると、古代より連綿と続いてきた東アジアとの海上交易において、沖縄や奄美など南海の島々を経由して北部九州域を結ぶ交易ルートは、必ず五島列島は上五島の、ここ野崎島と小値賀島の海峡を通ることが習わしとなっていたようである。 この画像に映る対岸の小値賀島には、野崎島の「沖ノ神島神社」の分祀となる「地ノ神島(ちのこうじま)神社」が海岸近くに鎮座しており、両社はまるで国内と国外を結ぶ海路の出入り口を司る、開閉の「門」を象徴しているかのようにも思われた。 特に、AD663年の「白村江の戦い」以降の「遣唐使船」は、五島列島から東シナ海を横断するルートが主流となったため、海上からもその威厳を存分に感じさせてくれる野崎島の「王位石」については、その近くを通る船舶の船上から畏敬の念で崇められたであろうし、中国までの航海安全を祈願する信仰の対象になったことがうかがえる。 この「王位石」の近辺で、まるで別世界の時空を満喫しつつ、気づいてみると約1時間が経過していた。 もう日暮れが近かったので急ぎ足で帰途に着いたが、さすがに一度は来た道を戻るのであるから、意外に早く宿泊施設の「自然学塾村」に辿り着けたのは嬉しかった。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2015年03月18日 00時00分26秒
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