七夕(7月7日)まで、あと3日という日、わたしは、東京の下町を歩いていた。初めての街の、小さな花屋の店先で、笹竹をみつける。
「あ、七夕!」
七夕のことは、思いだしては何かにまぎれ、また思いだしてはものの間にはさまるという具合で、まあ、忘れていたのに等しいのだった。
粗忽者のわたしは、こうして、年中行事をうっかりやり過ごしてしまうことがある。
急行電車の停まらない駅のホームで、看過できないものを乗せた電車を見送るような気持ち。あ、と思ったときには、電車のしっぽが目の前をひゅーんと過ぎていく。
これから、皆で短冊に願いごとを書いて、それを吊るして……、果たして七夕の夜に間に合うだろうか。
それは、ともかく。
「笹くださいな。おいくらですか?」
やさしそうな花屋のおばさんが、
「105円いただきます。よい七夕を」
と言いながら、薄茶の紙で長い笹竹をくるんでくれた。
笹をそっと抱いて、地下鉄に乗りこむ。
笹竹は、おおいに人目をひき、声がかかる。
「まあ、笹ですね。七夕ですか」と。
「いいのねえ、お子さん、喜ばれるでしょうね」と。
驚いたことに、「まあ、いいお母さん」などという、滅相もない評価まで浴びて、顔から火がでそうだ。
「いいお母さん」というのだけは返上させてもらうとしても。これほどまでの笹への関心は、多くのひとが、それぞれに七夕への思い、記憶を胸に秘めている証だろう。
「あなた、すごいね」
と、笹の葉に、口を寄せてささやく。
家に帰るやすぐに、色紙で短冊をつくり、和紙をとり出す。
和紙は、こよりをつくるため。これで、七夕飾りや、願いごとを書いた短冊を笹竹につるすのだ。和紙をよるのは、年に、この時期の1度きり。そのため、ちっとも腕が上がらない。ほら、また、こんなふうに、なんだか野太い不格好なこよりがならんだ。
和紙を細長く切り、親指と人さし指でよっていく。テーブルの上に、水を入れた小皿を置いて、指をしめらせながら細いひも状に、よる。
不格好でもなんでも、こうしてよってつくったこよりは、強い。七夕飾りや短冊を笹竹につるすためだけというのは、さびしい。そんなことを考えていたせいか、50本ほどもよってしまった。
家の者を代表するつもりで、短冊に、「健康」「商売繁盛」「交通安全」「家内安全」なんてことばを、書いては、笹竹につるす。
強欲な、わたし。
子どもたちに1枚ずつわたした短冊が、翌朝見ると、笹竹につるしてあった。
「楽しく、自立した仕事ができますように」
「充実した夏休みに、する!」
「自分らしいことができますように」
……自分の書いた願いごとが、恥ずかしくなるような。
あわてて「平和」と書いて、つるす。
こよりは、つくっておくと、小物を束ねたり、とじたりするのに
重宝します。ちょっと雅やか。