タオルケットというのは、すごい。
タオルの超大型というのだけでもすごいが、掛け布団よりも自由で。タオルケットは、ときに邪魔にされることがあろうとも、ともかく安心をくれる。端をつかんでいるだけで。お腹のあたりにまるまっているだけで。邪魔にされることなんか、何でもないです、というような健気さがある。
夏のはじめ、そろそろ羽根布団からタオルケットに換えようかというときは、思わずときめく。うちは、羽根布団とタオルケットのあいだの掛けものを持たないから、ときめきの度合いもふくらむ。
ときめいて、「そろそろタオルケットに……」と云いかけるたび、2、3回は「まだ早い」と決めつけられる。とくに3人の娘たちに、だ。「お母さんは、いつもちょっと早すぎるからね」と云うのである。「結局、寒くてぶるぶる震えて、タオルケットにくるまるのでも足りなくて、ベッドカヴァにも助けてもらうことになって……」
——はいはい、そうですか。
けれど、くるまると云えば、夏のあいだにだって1枚のタオルケットにくるまる寝姿を何度か見ることになる。近年、熱帯夜の日数がふえたそうだが、熱帯夜ばかりがつづくわけではなく、たまには涼しい夜はある。涼しい夜につづく明け方には、くっと気温が下がる。そんなときには、朝、3体のミイラが見られる。頭からすっぽりタオルケットにくるまる子どもたちの寝姿だ。これが見たくて、子どもたちが寝ている3階にそろっと駆けあがることがある。
ミイラは、無条件に愛らしい。
ミイラのままでいるという日があってもいいように思うけれど、ミイラはたちまち起きだしてきて、それぞれ忙しそうな様子をして、文句を云ったりする。「まったく、どうしてこんなに暑いんだろう」なんかと。ミイラの愛らしさは、いったいどこへいってしまうのだろう。おそらくタオルケットのほうにくっついているのだろう。
この夏のことである。
目覚めていちばん、自分が使ったタオルケットをたたむところからはじめることを思いついた。目覚めたら起きてしまおうと考えているわたしは、決心がにぶらぬうちにとばかりに、眠気を払ってびゅんと台所へ駆けだす。寝床をかえりみることもせずに、びゅんと。
びゅん、はいいのだが、わたしがたたまずにおくタオルケットはといえば、たいてい夫が布団を上げるときにたたんでくれる(子どもたちはそれぞれベッドだが、夫とわたしは布団を敷いている)。そのことで文句を云われたこともないし、してもらって恐縮するというほど慎ましくないわたしだ。けれど、ある日ふと、タオルケットは自分でたたもうなあと思った。びゅん、は、そのつぎのことにしよう、と。
ふと、わたしは何を考えたか。
それは、起き上がってこの場を去ったわたしは、ふたたびここへもどることはないかもしれないという考えだった。あとでしようという「あとで」がくるとはかぎらない、とわたしにおしえたのは、ことしの大地震かもしれない。
ふたたびもどることはないかもしれない、などと書けば、いかにも儚(はかな)い。そしてわたしは、たしかに儚さも感じているのだけれど、それだけではなく、せめてそこにあるたためるものはたたみながら、つぎにすすみたいと考えているのだ。
タオルケットは大きいから、たたもうとすると、立ち上がって両手をいっぱいにひろげないといけない。端と端を合わせて、もひとつ端と端を合わせて、たたむ。何分もかかるわけではないが、あっという間というわけではなく、たたみながらちょっとしたことを考える。無事に起きられたありがたさとか。今朝のみそ汁の実についてとか。ぬか漬けにする野菜の顔ぶれはあれとこれ、とか。
——きょうは、英文翻訳の勉強に行く日だな。
というようなことも思う。
たたんだタオルケットは、そこに置いてゆく。
何かをよして、引き払うときにも、「たたむ」という云い方をする。わたしは、すこうし、その「たたむ」にもこころを寄せているのかもしれない。人生のおわりが見えている、という話ではない。そうではないけれど、ここから担担と歩いてゆけばそこへ着くという思いはある。そんなふうに思えるのも、日日まあまあおだやかに暮らせているおかげだ。
たたみながら、担担と暮らしてゆきたい。
木綿のケット。
わたしの持ちものには、めずらしい柄ものです。
これを選んだときの気持ちは、よくおぼえています。
もう18年くらいも前のことになります。
当時のわたしは、いろいろの心配事を抱えていました。
そんななか、タオルケットをあたらしく買うことになったのです。
「ふみこちゃん、悩みや心配事があるときには、
こんな敷布(シーツ)を使うといいわよ。いい夢が見られる。……
がんばって」
というやさしい声がよみがえりました。
学生時代、心配事をもったわたしに、友人のお母上が
きれいな花畑のような柄のシーツをプレゼントしてくださったのです。
たしか、イギリスのものだったと思います。
夜、花畑のなかで眠るたび、自分のことを応援してくれるひとが
いるんだなという気持ちに包まれました。
ふと、そのときのことを思いだして、
わたしは、こんなタオルケットを選んだらしいのです。