「その表現じゃ、彼女の心の複雑さを表したことにはならないだろうな。わかりやすくいうとこういうことだ。男を黒い石、女を白い石とするだろ。美月はグレーの石なんだ。どちらの要素も持っている。しかも五十パーセントずつだ。だけどどちらに含めることもできない元々、すべての人間は完全な黒でも白でもない。黒から白に変わるグラデーションの中のどこかだ。彼女はそのちょうど真ん中ということになる」 『片想い』(東野圭吾/文春文庫)
長女が、「はいこれ」と云って、ただ、それだけ云ってわたしの机の上に置いていった本だ。(はいこれって……)と思ったし、見れば「片想い」とあるからふと、なつかしいこころにもなった。
それに、「東野圭吾」。人気作家であるのに、一度も読んだことがない(原作の同名ドラマ「流星の絆」は、見たな)。
けれど、こういうのを、わたしは出合いだと思っている。降られるほうの出合い。降られるのでないほうの出合いは、自分がもとめてもたらされるもの。
不意に降ってきたので、一瞬もたもたっとしたけれど、だんだん降られたときのかまえになってゆく。降られたときのかまえとは、降りはじめた雨のなかに踏みだす感じだ。傘はないが濡れたっていい、というような。靴を脱いで、雨に濡れた道をゆきたい、というような(できれば、じゃぶじゃぶ)。つまり、ある意味、覚悟をもって踏みだすわけだ。
読みはじめる前に、本の袖(カヴァの折り返し)を見て、驚く。「著者紹介/東野圭吾(ひがしの・けいご)1958年生まれ」とあったからである。(同い年じゃん)と。同い年なのが、どう驚きなのかはわからないけれど、わたしは、いちいち小さく驚きながらゆく癖をもっている。驚き癖(おどろきぐせ)とでも云ったらいいのだろうか。
ただし、40歳を過ぎたあたりからは、同じ驚くのでも、ひそっと驚こうと気をつけている。
ひとが、とくにわたしより年若いひとが、何かを打ち明けてくれるようなとき、こちらがあんまり驚くと、相手に打ち明けなければよかったという気持ちにさせてしまうことがあるからだ。こちらは、驚いても、声はおろか顔にも驚きを出さず、「ふーん」というふうに受けこたえをするのがいいように思える、きょうこのごろ。「ふーん」と云うのか、「そうなの」と受けるのか、それは何でもいいけれど、「わかる」、「わかるような気がする」というニュアンスを含ませるのがいいように思える、きょうこのごろ。
そのニュアンスを醸そうとすることで、こちらにも、わかろうとする方向性が生じるから、不思議だ。
さて、『片想い』のはなし。
降られて、読んで、気がつくとすっかり浸りこんでいた。波が寄せては返すように、そうだったのか、そうだったのか、そうだったのか、そう……と、わたしの脳みそのなかを理解の波が行ったり来たりしている。
子どものころわたしは、人間には、男性と女性の2種類があると思っていた。大人になったばかりのころは、男と女って、別の「属」だか「種」にちがいないと思った。その後やっとのことで、人間、2種類じゃなさそうだぞとわかり、男性のように見えていてもじつは女性だという存在や、女性のように見えていてもじつは男性だという存在があることを胸におさめ直した。以後、あらゆる性(とくに少数派の)に偏見をもたないわたしになってきたつもりでいたのである。
ところが。『片想い』を読んで、男女の区別がそも、ある線できっぱり分かれているというわけでないことに気がつかされてしまった。ひとりの人間のなかにも、男性と女性が棲んでいる。
女ということになっているわたしのなかにも、男性の要素が存在している。……そう思って考えると、ときどき、自分をつくる性の要素が偏りを見せていたことに思い当たる。
冒頭に引用した「完全な黒でも白でもない。黒から白に変わるグラデーション」というくだりが慕わしく、午睡に落ちてゆくときのような安心感に包まれた。そうだったのか、そうだったのか、そうだったのか、そう……と。
グラデーションという思想に切りこまれて、わたしは困惑している。ああ、この世はそんなに単純じゃあないのだわ、と思っている。わたしのなかの「こっち側」と「あっち側」が双方片想いし合って、あっちは(こっちは)、こっちを(あっちを)わかってくれないとじれている。
それでも、グラデーションという在り方に、なぜだか救われた、とも思っていて、どうなっているのかしらわたしは……とあきれる。
ここまできて、どうしても書いておきたいことが出てきた。
グラデーションを生きているわたしたちには、しかし、グラデーションであってはいけない立場がある、ということ。それは、グラデーションを生きるひととしての存在を超えて、この世界を未来につなげる責任において。
自然のサイクルを回復し(これ以上、自然を壊さないというところからはじめて)、未来につなげてゆこうとする生き方をする立場だ。
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昨年の12月にいただいた、ポインセチアです。
名は、紅子(べにこ)。
1年を通じて、苞(ほう/紅かったのは7月まででした)を
茂らせ、たのしませてくれました。
ところが、冬になっても一向に苞は紅くなりません。
園芸書で、夜間覆いをしてやると紅くなるということも
学びましたが、なんだか、緑のままの紅子もいいなあと思えてきて。
紅くても、緑でも、紅子は紅子だと、思えてきて。
![Photo Photo](https://image.space.rakuten.co.jp/d/strg/ctrl/9/48fe62f172af0bcba294963ce948d2c793ef64f3.39.2.9.2.jpeg)
Merry Christmas.
この天使のオーナメント(全長5.5cm)、子どものころからの
気に入りで、ツリーにぶら下げたあとも、いつも近くに行って、
眺めていました。
近年、母に頼んで、実家からもらってきました。
とても古いモノなんだそうです。
静かな、佳いクリスマスをお迎えください。