朝、15分くらい走るつもりで足を踏みだしたところが、左足のくるぶしあたりがにぶく痛んだ。走れば治るだろうと思って(そういう思い方をしがちである)、そのまま走る。
同じ日の夕方、くつしたを脱いで驚いた。左の足首あたりが腫れている。
「腫れた腫れた」
とちょっと得意になって(そういう思い方をしがちである)云う。すると、3人の子どもたちが、「病院へ行って!」と口をそろえて云う。
「え、病院?」
と、たじろぐ。病院に行くなどとは露ほども考えなかったからだった。
翌朝、いつもしている運動を休み、特急で家のしごとを片づけて、病院へ向かう。このあたりではいちばん大きな病院で、あたらしく、気持ちのいい建物。
病院と云えば、待ち時間だ。分厚い本を鞄に入れる。大好きな本だが、寝転んで読むのが好きな行儀のわるいわたしが、開けないまま持っていた本、『懐かしきオハイオ』(庄野潤三/文藝春秋)だ。束(つか)に定規を当てて計ったら、3.6センチもある。
診察の申しこみをし、整形外科の診察室の前のソファに腰をおろす。窓辺の、陽当たりのいい場所である。大きな窓の向こうに、みどりが揺れている。
分厚い本を開く。2009年9月、「庄野潤三」が亡くなったときはさびしかったなあ。何より「……これから、どうしよう」という切実な不安にとらえられた。「庄野潤三」の本を頼りに暮らしているからだ。世知辛いものにからめとられそうになったとき、嫌気がさしたとき、「庄野潤三」の本がわたしに立ち直るきっかけをつくってくれるからだ。ところで、同じように身を寄せたくなる本に『星の牧場』(庄野英二/理論社)がある。この本の著者「庄野英二」は、「庄野潤三」の兄だ。なんというきょうだいだろう。ことばが、ない。
『懐かしきオハイオ』は、「庄野潤三」がロックフェラー財団の研究員として、米国オハイオ州ガンビアで暮らした1年間(1957年秋から翌年夏まで)をふり返り綴った作品だ。前編に、『シェリー酒と楓の葉』(文藝春秋)がある。この米国滞在の機会は、まことに恵まれたものではあったが、ただひとつ、3人の幼い子どもを日本に残して夫婦で渡米するという、何よりも家庭を大事にしている庄野夫妻にとって、どうにも難儀な条件がついていた。たしか、長女の夏子さんが10歳、長男の龍也さんが7歳、末っ子の和也さんが2歳だった。
病院の待合室のソファの上で、オハイオ州ガンビアの、「白塗りのバラック」と呼ばれる教職員住宅の台所の水がなかなか落ちないのをなおしてくれたカレッジ(のメンテナンス・オフィス)のデイヴィッドスンさんが「テイク・イット・イージイ」と云って帰ってゆくところまで読んだわたしは、いきなりオハイオ州ガンビアから引きもどされた。「ヤマモトさん、ヤマモトフミコさん、4番にお入りください」というアナウンスが耳に飛びこんできたからだ。
わたしの左足首あたりの腫れを診察した医師が、「お身内にリュウマチの方はありませんか?」と訊く。長年リュウマチとつきあってきた親しい友人の顔が浮かぶ。その意味でわたしにとって、リュウマチは身近な存在であり、「はい、あります」と答えそうになるも、友人とのあいだに血縁はないのだと思いなおす。
「ありません」
医師は、ゆっくりうなずいたあと、こんどは、
「最近、蜂とか、虻(あぶ)のような虫に刺されませんでしたか?」
と訊く。
そういえば一昨日、蜂に刺されたひとのはなしを聞いたなあ。そうだ、長女だ。興味をもっていたニホンミツバチの養蜂の見学がかない、よろこびのあまり蜂に近づき過ぎて刺されたのだった(蜂はとても用心深い。攻撃のためいきなり人を刺したりはしない。よほど近づき過ぎたものと思われる)。しかし、それは長女の体験であって、わたしのではない。
「刺されてはいません」
医師から、わたしの足首の腫れが、捻挫や打撲によるものとはちがうように思えるから、血液検査とレントゲン撮影をすると告げられる。また待ち時間がやってくる。こんどは本を開いても、すぐとはオハイオ州に飛んではゆけない。
もし、リュウマチだったとしても……と考えているのである。もしそうだったとしても、わたしは絶望してはいけない、と考えているのである。長年、リュウマチとつきあってきた友人の明るさ、潔い生き方を間近で見ている者として、それはできない。わたしも、そうなってゆけるように努めなければならない。すくなくとも、医師の口からその病名を聞いたくらいのことで、怖じ気づきたくない。そんなことを、ぐるぐる考えて、オハイオ州に行けないのだった。
そんな耳に、「前立腺がんだそうだよ。だが、落ちこんじゃいられないよ。命あるかぎり生きるってことさ」という、男声が届く。顔を上げると、70歳代とおぼしき男性が、同じ年頃のふたりの男女に話している。しばらく様子を見ていると、入院室から外来に診察を受けにきた男性が、待合室で出会ったふたりの友人に、「落ちこんじゃいられない」と話したのだ。彼(か)のひとの発言にもこころ動かされるが、もうひとつ、同じ病院内の入院室からやってきたというのに、チェックのシャツにコール天のズボンという姿でやってきていることにも感じ入る。
家に帰りついたのは、昼だった。
病院へとつよくすすめてくれた子どもたちに、感謝している。血液検査とレントゲン撮影によって、わたしの左足首の腫れは、過度な運動が引き金になっての炎症だとわかった。しかも、同じ病院の過去のカルテに、「過度な筋トレが引き起こした腕の炎症」という記録が残っており、医師から、「くれぐれも、ほどよい運動をお願いします」と釘を刺されたというわけだった。感謝したのは、原因がはっきりしたこともだけれど、それより何より、病院で考えたり、見聞きしたことがありがたかった。その機会をあたえられたことを感謝している。
その日はわたしの、課外活動のような学びの機会だったのである。
毎年、「立春」に2回めの新年の祝いをと、
決めています。
屠蘇を用意しておくだけ、という年もありますが。
ことしは、病院に行くことをすすめてもらったお礼の気持ちで、
もう一度重箱をとりだし……。
煮〆と、子どもたちの好物の「鶏の唐揚げ」を詰めました。
かまぼこ、伊達巻きならぬ卵焼き、黒豆も。