立春の翌日。
そわそわしながら、夫に、「あのさあ」と云う。
「あのさあ、あのさあ……あのさあ」
と云う。
「何か、ぼくの出番?」
と夫が訊くので、「箱をね、出してもらいたいの」と答える。
「ああ、茶箱ね」
夫は、めずらしく勘がいい。そして仕事部屋の奥地(夫の部屋に隣接している納戸を「奥地」と呼んでいる)に置いた茶箱から、大小まちまちの箱を3つ出してくれた。
「ふたりで、あの日にしまったんだったな」
と云いながら。
そうそう、それを云いたかった。ひとりで「あの日」を思いだすのは、いやだった。3つの箱は、長女、二女、三女がそれぞれに持っている箱である。なかにはひな人形が納まっている。
昨年の3月11日、ふたりでテレビの画面に映しだされる驚くべき光景を横目に、ひな人形をしまったのだった。
そのときのことを、わたしはこう書いている。
テレビ画面を凝視しながら呆然といている自分に気がついて、とつぜん
ひな人形をしまうことにした。(中略)おひなさま方に、この状況をくわし
くは知らさずにおきたいという思いが湧いた。これから先、どんなに過酷
なことになっていったとしても、来年、またお出ましいただくころにはお
だやかな日々がもどっているように、あたたかな日射しのなか坐っていた
だけるように、と。
はっと我に返った夫も、それを手伝ってくれた。ひな人形のことをして
もらうのは、これが初めてである。 (『不便のねうち』※より)
あの日、「来年、またお出ましいただくころには」と思っていた、その日がめぐってきたわけである。
おだやかな日々とはまだ云えないいま、未来に向けての大問題も山積しているいま、だが。
「この家の者たちは、なんとかやっています」
と挨拶する、おひなさま方に。
そのまた翌日、母が電話の向こうで云う。
「ふと思ったんだけど、うちにあるおひなさまは、アナタのおひなさまよねえ。山本のおじいちゃまが、アナタの初節句に買ってくださったのよねえ。ことしは、アナタに飾ってもらおうかなあと思うの」
母の口調は、いつもながらおっとりとしているけれど、アナタ、というところだけは「ア、ナ、タ」というふうに、一語ずつ区切って念を押すように云っている。
わたしのひな人形は七段飾りで場所をとるということもあって、実家に置いたままにしている。その上、この5年ほど、それを自分の手で飾っていない。母と子どもたちにまかせきりにして。
「ことしは、飾りに行く」
と約束する。
つぎの日曜日。実家へ行き、おひなさまを飾る。
わたしの初節句というのは1959年(昭和34年)だから、このおひなさまも、50歳を越している。
「ずいぶん、長くやってまいりましたね、お互いに」
と思わず、挨拶。
五人囃子の5人のうち、2人までが額髪を広く剃りあげているので、烏帽子をかぶせるのに苦心しながら笑う。かぶせるとき、いつも苦心し、五人囃子の面面に文句を云うのがならいだったことを思いだして、笑う。
それにしても。わたしは半日はかかる飾るしごとと、しまうしごとを、母にまかせきりにしてきたのだなあ。段段をつくるのなんかは、かなり重労働だ。「あ、そこ、押さえてて」ともうひとりに頼まなければ、自分の足で押さえていなければならない。
「これからは、自分で飾って、しまうからね」
と、両親にお辞儀する。
おひなさま方にも、お辞儀する。
おひなさまは、不思議だ。
何もかもを、見通しているように思える。すました顔で、何もかも。
飾りかけのときの写真です。
屏風もまだだし、髪も乱れていますが、
ああ、うつくしいなあと思わず、シャッターを切りました。
昭和34年の「ご成婚」の年だったので、
お顔を美智子さまに似せてつくられたという人形だそうです。
おひなさまのお道具が、好きで、
子どもの頃は、こっそりおままごとに拝借しました。
とくに、気に入りの火鉢です。
※『不便のねうち』(山本ふみこ/オレンジページ)
2月17日、このブログから5冊目の本が刊行されます。
どこかで見かけたら、どうか手にとってご覧いただきたく、
お願い申し上げます。