終わるときは、いきなり終わるのだろうなあと、考えるともなく考えている。
みずからの命の終わりも、もしかしたらこの世界(地球)の終わりも、どちらもいきなりやってきそうである。
どちらの終わりも、わたしは恐れたくない。
けれど。この世界の終わりに向かっては、いま、抵抗はしないといけないと考えている。なぜといって、それを終わらせるのは、わたしたち人間の仕業にちがいないからである。そこを反省したり、あらためたりすることなしに「終わりを恐れたくない」などと云うのは、身勝手が過ぎる。
抵抗して抵抗して、反省してあらため、もうひとつ反省してあらため、という末にやはり終わりがきてしまったら、仕方がない。謹んで終わりを迎えよう。
みずからの命の終わりも、もしかしたらこの世界の終わりも、どちらもいきなりやってきそうだ、と書いたけれど。もし、予告されたらどうするか。
たとえば、「あと1週間で終わります」と予告される。
1週間を長いと考えるか、短いと考えるかは、ひとそれぞれだ。わたしは、自分が、案外たっぷりあるなと考えるだろうと予想している。
どんなふうに予告されようと、予告された当初はあわてるにちがいない。何をしておくべきかを考えて。やがて、わたしは、あわてた自分を笑うのだ。あわてる必要はないと、そう云って笑うのだ。
いつもどおりに過ごせばいい。
仕事もしよう。月刊のと、単行本の仕事……は、もうしなくてもいいだろう。
問題は週刊の仕事だ。新聞の連載の原稿は、2週間前に渡してあるはずだから、安心。が、待てよ。さいごのコラムに、これまでの感謝を記したほうがよさそうだ。原稿を、差し替えてもらおう。
「愛読ありがとうございました」と書くだけではつまらない。これまで、書くには書いたが、遠慮しいしい書いてきた類(たぐい)のことを、おおっぴらに発表して締めよう。そうなれば、挿絵もあたらしく描かないといけない。いつもは速達郵便で挿絵を送っているのだが、この際、電車に乗って、東京竹橋の毎日新聞社まで届けに行こう。長く担当してもらった編集局の小川節子さん(記者生活30余年の彼女のことだ、きっと社に出ているだろう)に会って、ふたりで昼食に、パレスサイドのレストランのフランス料理を奮発しようか。「本日入荷・海の幸網焼きオリジナルタルタルソース」。よし、これにしよう。子どもの時分から30歳前半まで唯一苦手だったのに、ある日を境に好きになったタルタルソースを食べておくのも、わるくない。なぜ好みが変わったかというと、自分でタルタルソースをつくる羽目に陥り、つくってみたら、やけにおいしかったのだった。
「節子さん、長い間ありがとうございました。じゃ、ばいばい」と、手を振って別れる。
ブログもあたらしく書いて、火曜日(ブログ「うふふ日記」は、毎週火曜日が更新日)を待たずに更新してもらう。そうして、いつもどおり、ときどきあけてみてはおたより(コメント)に返事を書く。たくさんコメントがくるといいなあ。これまで読むのにとどめてコメントを書かずにきたひとも書いてくださったら、わたしは忙しくもたのしく返事をする。
「地球はなくなってしまうけれど、こんどまたべつの星で会いましょう」なんかと書くのである。愉快。
家のこと。仕事が片づけたあと、のんびりとりかかろう。
ごはんもいつも通り。洗濯も掃除も。
寝る前の読書。そうだなあ、「庄野潤三」を読むだろうかなあ。
忘れるところだった。英文翻訳の課題をしなければ。これも、できるだけていねいに訳して、せんせいに見ていただく。高橋茅香子せんせいは、築地の仕事場におられるだろうか、それともご自宅におられるだろうか。どちらにしても、これはパソコンでお送りしよう。せんせいは添削してくださり、「いつの日にか、じっくり英文と向きあえるといいですね」 きっとそう書いてくださる。
こうして、いつも通りの1週間が、いつもと同じ速度で、つまりあっという間のようでもあり、それなりに充実もしていたようでもあり、というふうにおわり、とうとうさいごのごはんだ。
わたしは、これについて、この20年あまり、考えを変えないできた。
鶏とセロリのサンドウィッチとスコッチウィスキー。
これをさっとつくって、さくっと食べる。
「その週のはなし」の原稿を書き、
鶏とセロリのサンドウィッチをつくったら、
どんどん「その気」になってきました。
さいご、さいごと思っているのです。
でも、考えたら、今週は今年度の最終週ですね。
佳い1週間にしましょう。
*
〈鶏とセロリのサンドウィッチ〉
鶏(蒸して細切り)とセロリ(せん切り)を合わせて、
酢(少し)をふりかける。
ここに塩こしょうして、マヨネーズで和える。
パンに、バタ(またはマーガリン)を薄くぬり、
好みの辛子をぬる。
鶏とセロリを和えてつくった「なかみ」をはさむ。
※パンの耳はつけたままでいいでしょうね。
さいごの日なのですから。