方言が好きだ。
ときどき、東北弁、関西弁を真似してみたりもする。厳密に云えば、東北弁、関西弁には、もっとこまかく、地域別の方言があることはわかっている。が、そこが「真似」のかなしさで、そちら方面、そのあたりの……というつかみ方しかできない。
さきごろ最終回を迎えた、NHK朝の連続テレビ小説「カーネーション」にも、ことば、方言への憧れをかきたてられた。あれは、わたしが認識できる関西方面のことばのなかの岸和田弁だった。
「カーネーション」を観ながら、ああ、こんな話ことばを、すらすら云えるようになれたなら、と考えていた。個性あふれる方言は、それを話す者の思想と行動を自由にするように思えて。
そんな書き方をすると、まるで自分が方言を持たず共通語を話し、公用語と呼ばれることばをあやつっているかのようだけれど、それはちがう。わたし個人は、おそらく北海道弁のニュアンス混じりの東京弁をはなしているのではないだろうか。ごく幼いころに東京に移り住んだとはいえわたしは道産子であるのだし、北海道縁(父は苫小牧生まれの札幌育ち。母は函館育ち)の両親のもとで育ったからである。ただ、個性には欠ける。「こちらでは、こんなふうに云うんですか」と云われることは一切ない。「おもしろいアクセント!」とおもしろがってもらう機会も、ない。
特徴があり、発音の抑揚(イントネーション)に個性があらわれる言語というのはたのしいものだなあ、それこそ「お国ことば」だなあ、と思える。
ところで。
わたしは、ここで方言、お国ことばについて書こうとしているのではなかった。「好きなもん」の話をしようとしているのだった。
「好きなもん」と題をつけてみて、ああ、これも関西方面の云い方だなあと気がつく。東京弁ならば、「好きなもの」と書くところだ。そんなところから、つい話が脱線した。
「好きなもん」という……題名。
こんなふうに、はじめから題名を決められることばかりではない。題名なしで書きはじめて途中でつけたり、書き終えたあとで題名を変えざるを得ない事態に追いこまれていたりすることが少なくない。が、きょうは、なぜだか、はじめに、とんと題名が置かれたのだった。
ときどき開いている小さな読書会の折りのアンケートや、新聞社や出版社を通していただくお手紙に、きょう、お返事をしたい思いで書きはじめている。
こうしたお手紙に多いのは、「子育てと仕事の両立について」、「時間のつかい方」、「元気の源」という質問だ。それらについては、追追、どのようにこんがらかり、うまくゆかなさとつきあってきたかを書いてお返ししようと思う。けれどきょうは、いただくあらゆる種類のお手紙に、まるで約束のようにあらわれている、ある文言について書きたい。
「毎日をていねいに暮らされている山本さん」というのが、それである。
わたしのどこらあたりが、ていねいに見えるだろう。それはわからないけれど、ていねいと結びあわせての評価が多いのに驚くばかりだ。
おたより、どうもありがとうございます。
お手紙のなかに書いてくださった「ていねい」について、わたしが感じていることを、少し書かせていただいてもかまわないでしょうか。
「ていねい」というのは、注意深く、こころが行き届いていることです。手厚い、礼儀正しい、という意味もあります。
さて、そうなると、そんな「ていねい」とわたしとのあいだに、いったい関連があるでしょうか。
なるほど過去どこかに「ていねいに暮らしたい」というようなことを書いたかもしれませんし、「なるべくていねいに」という表現を選んだこともあったかもしれません。が、わたしは、「ていねい」を目標に暮らしたことはないのです。そんなことより(という云い方を、「ていねい」には許してもらわなければなりません)、めざすは「おもしろい」だと思えます。
そうです、わたしの好きなもんは断然……、おもしろいです。
おもしろいと思えることをさがし出してはそれにとり組み、どうしてもとり組まねばならない事柄については、そこにおもしろみをみつけて。そんなふうに、「おもしろい」を大事な座標として、これからも暮らしてゆきたいと考えています。
山本ふみこより
この写真、何でしょうか?
10×3cmの板きれです。
答えは、弁当のしきり。
ご飯とおかずを区切る役目をするあれです。
3つのわっぱの弁当箱のうち、1つのしきりが
見えなくなりました。
どうということもないモノのようでありながら、
なくなってみると、困ります。
夫が見かねて、板きれでつくってくれました。
わたしにすれば……、
こういうしごとは、おもしろくてていねいだと思えます。
ありがとうさん。