「ぬ」? なんだったっけ……と、一瞬考える。
冷蔵庫の側面に「ぬ」の一文字が書いて貼ってある。書いたのも、貼ったのもわたしだ。
ときどき、こういう貼りだしをする。ことばの最初の一文字(欧文のかしら文字)やら、暗号やら、貼りだしてみずからに注意を促すのだ。
若いころには、英語で書いた。
玄関に小さく「purse」、「camera」、「address book」「handkerchief」……などと書いて貼りだすのである。
どうしたものか、若いころ、わたしには基本的なモノを携帯し忘れて出かける癖があった。持たないでいて自分が困るのは仕方ないとしても、誰かに迷惑をかけるのは困るので、それで、玄関でみずからを呼びとめ、鞄のなかみをいま一度見直そう!としたのだった。日本語で「財布」「カメラ」「住所録」「ハンカチーフ」と書いておくのはストレート過ぎるので、英語で書いたのだけれど、品目がつぎつぎにふえてゆき、だんだん効果が薄れてしまった。
支払いの段になって「purse」(財布)を忘れて困るのなんかは茶飯事で、がっかりしながらも威勢よく「忘れましたっ」と告白し、人質ならぬ質草に腕時計と名刺をさし出す。ただし、支払いの代わりに店の仕事(皿洗いとか?)を手伝う経験はしたことがない。どちらにしても、申しわけなくも恥ずかしい記憶である。
財布を持たずに出かけることはなくなったが、いざ開いてみると、空っぽに近いというようなことは、いまなお少なくない。「なんとかなる」という考えが、どこかにこびりついているのだと思われる。
ええとそう、冷蔵庫の「ぬ」のはなしだ。
みずから「ぬ」と書いて貼りだしておきながら、一瞬考えてしまった、というはなし。
——ぬ、ぬ、ぬ。ぬりかべ(妖怪の仲間)の「ぬ」……? 縫い代(布を縫いあわせるとき、縫いこみになる部分)の「ぬ」……? ヌーヴォー(nouveau/フランス語で「新しい」の意)の「ぬ」……? 咄嗟に、このくらいの連想をした。が、それはみんな、はずれ。 正解は、ぬかみその「ぬ」である。
4月の終わりに、ひと冬休んでいたぬか床を復活させた。塩蓋をしておいたために塩辛くなり、そうでなくても長期間休んだことで役割の内容を忘れてしまったかに思われるぬか床を調整し、いい塩梅になってきたところだった。
しかし。長期間休んで役割を忘れたのはぬか床よりもむしろ、わたしのほうだった。それが証拠に、たのしみにしていた復活第1日め、晩ごはんにぬか漬けを出すのを忘れた。ころっと忘れた。せっかく漬けたきゅうりや茄子、かぶの皆さんが、ぬかからひき上げられてうらめしそうにわたしをかるく睨んだのは、とり出すはずの時間を9時間ほども過ぎた翌朝だった。わたしはあわててぺこぺこする。
「ご、ごめん」
あろうことは、2日めも忘れた。
「考えごとしていたのかな、つい、ついね。申しわけありませんでした」
と云って、ぺこぺこぺこぺこ。
そうして書いたのが「ぬ」の一文字だった。
「ぬ」の貼りだしは、以来、わたしを大きく励ましてくれている。ころっと忘れた癖して(しかも2日にわたって)、「ぬの字」がどれほど大きなおかずであるかを噛みしめるきょうこのごろ。
少少漬かり過ぎたぬか漬けおよび古漬けを
刻んでお茶漬けにするのが、大好きです。
「ぬの字」はどうなっても素敵!と思います。
ここに、だしをかけ、わさびをのせ、
しょうゆを数滴落として食べます。
古漬けをカナッペ風にすることもあります。
この場合は、ちょっと癖のあるチーズをのせます。
※お知らせ
下記FM局の「陽だまりハンモック」
(パーソナリティは俳優でエッセイストの本上まなみさん)で、少し話をしました。
相変わらずの話下手ですが、お知らせだけはしておこうと思います。
TOKYO-FM:5月19日(土)午前11時30分~ 11時55分
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