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テーマ:好みのタイプ(83)
カテゴリ:硬派
広末涼子さんを私はかなり好きだった。
特に1996年、広末涼子15歳のとき。 だから、今の彼女を見てると「可能性」ってものについて考える。 平たくすると同窓会で「え、こんなに普通になってるの」とクラス一番の美人に驚いてしまう感覚だ。 15歳の頃の彼女はそりゃもうすごかった。 写真はどれも魅力的だった。 彼女が動くたびに世界が活力を取り戻すような光に溢れていた。 演技は自然で上手かった。 なにより、華があった。 さらに、ノスタルジィを思い出させる何かだって表現できていた。 そして、僕たちは思った。 「ハタチになったら、どんな凄い女優になるんだろう」って。 2000年、ハタチの広末涼子さん。 確かに、彼女は凄い女優ではあった。 2001年には「wasabi」でしっかりと夢をかなえている。 でも、それは普通の女優だった。 いわば、女優としては普通のエキセントリックさだった。 15歳の彼女から想像したハタチの彼女の10分の1も満たしてはいない。 そして、ふと、思う。 15歳のときの広末さんの最大の魅力は「可能性」だったんじゃないだろうかって。 これかれどうなるのかなって、ワクワク感。 絶対、凄くなるよっていう大物感。 彼女はそのオーラをごく自然に漂わせていた。 そして、多分、それが人生の絶頂だったのかもしれない。 「可能性」は実現しないものへの魅力だからだ。 生きるとは数ある「可能性」を、数少ない「確定性」に変えていくことである。 そうやって、僕らは何でもできる可能性を、職業的な技術や、銀行預金の残高に変えていくのだ。 そして、すべての「可能性」を完全なる「確定性」に変化できるほど、人間に時間はない。 きっと、広末涼子さんもそうだったのだ。 歌手になった。 映画女優になった。 だけど、その実力を得るとともに、彼女の底知れなさは一つ一つ、失われてゆく。 そして、ある日、彼女も我々も気がつく。 彼女が一番「美しい」日々がすでに過ぎ去っていっていることを。 それが老いということだ。 一般的に15歳や18歳では老いと成長はまったく別物として進行していく。 でも、あるときをポイントに成長と老いはコインの裏表になる。 そのポイントの時期は人によって違うだろう。 きっと、幼くして仕事をしている広末涼子さんは人よりもそのポイントが早かっただけなのだ。 だけども、僕は思ってしまう。 あの15歳の可能性がそのまま、現実的な確定性をもって、この世にいたらって。 もちろん、それは不可能なことなのだ。 映画やドラマにはハッピーな場面でエンドクレジットを打つこともできる。 だけど、本当の人生では誰も、勝手にエンドクレジットを打てない。 成長しようが、ハッピーであろうが、無常であろうが、可能性がゼロであろうが、我々は明日も眼を覚ます。 美しい時期を過ぎてもなお、僕たちは生きていく。 ほとんど、間違いなく。 人生はエンドクレジットを自分以外の何かが打つことで、やっと、終了するのだ。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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