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カテゴリ:硬派
『びみょー』
僕はこの言葉は好きではないが、この映画を表すのにこんな適切な言葉を残念ながら知らない。 面白くないか、といわれればそうではない。 面白いか、といわれてもそうではない。 金を返して欲しいかと聞かれれば、返さなくてよいと言う。 ただ、もう一回見てみたいかといわれたら、かまわない、と答えるだろう。 そういうことである。 もっと、面白くなるのに、と私なんかは思ってしまう。 素人なのに申し訳ないとおもうけど。 批判めいたことを書きつらねる。 でも、僕は基本的にこの映画のファンなのだと、思う。 話の筋とか、ややこしさを抱えてもなお、もう一度みたいと思わせる。 それが、なにかは私には言葉にできない。 あえて記せば「空気感」なのだろう。 時々のギャグや、不可思議な映像世界、それらがモノガタリのマグマのようにフツフツと湧いてきている。 だからこそ、ドンと爆発もせず、美しく整理もしていない「ロング・エンゲージメント」に歯がゆさを感じずにはいられないのだ。 力のあるボクサーが減量に失敗して敗者になったような感覚である。 ~ちょっと、ネタバレあり~ まず、導入部。 兵士の紹介よりも、主人公と恋人の馴れ初めから入っていったほうが素直ではなかったのか。 次に展開しているところ。 女暗殺者について。 殺人方法が派手で、面白いし、凝った映像なのもわかる。 映像の力もある。 でも、すっごい半端なのだ。 謎めいてもいないし、わかりやすくもない。 でも、なんか、浮いてしまっているのだ。 その挿入に過ぎない話が大きすぎて、伏線がより見えにくくなっている。 そして、話は後半になってからガゼン盛り上がってくる。 運命の彼とともにいた、生き残りが証言するあたりからだ。 だから、もっと、運命の彼を早く出すべきたったと思う。 そこから、親と偽った人を訪ねていってもいいはずだ。 または、そうでなくとも、恩赦の手紙が闇(正確には風呂)に消えるところまでの伝い方は工夫できたはずだ。 女暗殺者に獄中で統べて語らせるのは、ちょっと、惜しい。 やはり、なんといってもこのような映画の作りは先達に素晴らしい作品があってもがくところがあったのかもしれない。 つくりとは「Aに思えた話が、実はAではなかった。Bだったのだ」ということを連続させていくつくりである。 つまり、通常のものがたりは始まりから、終りまでである。 だけど、このタイプの話はものがたりが終わったところから始まっている。 「こういうモノガタリですよ」ということではなくて、「本当のモノガタリはこうですよ」という逆転させたやり方なのだ。 終りから始まりにさかのぼる、映画。 このパターンには「市民ケーン」が傑作として参禅と輝いている。 きっと、この映画の製作者はそれを崩そうとしたのかもしれない。 だから、展開部で主人公よりも女暗殺者じみた登場人物を際立たせた。 だから、運命の恋人の謎を知る男 謎立てようとしたのだろう。 でも、なんだか、崩しきれていないのだ。 きっと、過去を探るモノガタリと進行してるモノガタリを並行させるのは想像以上に難しかったのだろう。 原作があって、いじりきれなかったのかもしれないけど。 いっそのことオーソドックスにいってもよかったはずだ。 そうすれば、五人のややこしさも少しはほぐれたのではないだろうか。 なにしろ、教会の地下に隠れていたのが判明するとこからの展開は見事だった。 だから、その判明するのに主人公や、探偵が活躍や、かかわりがあってもよかったのかなと。 ちょっと、仲介者が多くて、淡々と流れていく。 と、まあ様々な傷がありながらも、最後には楽しませてくれた。 ストレートにいっても、十分に傑作にする力量が監督や出演者にはあったはずなのに。 ただ、こういう映画からモノガタリを作り上げるのは本当に難しくて、微妙なものなんだなあと改めて認識する。 さらに言えば、多くの名監督は駄作の後に最高傑作を作り上げたりしている。 反省を次に反映させているのだろう。 たから、僕はこのジャン=ピエール・ジュネ監督の次回作に多いに期待したい。 ※もっと、「モノガタリ」なら『目次・◎ものがたり(映画、音楽、文学、本)』まで お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2005年04月17日 02時24分03秒
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