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カテゴリ:東海道53次
富田は東海道五十三次の桑名宿と四日市宿の中間にある間の宿として栄えた。
11/24(日) 12:38 四日市市 富田地区市民センター前の掲示板 間の宿 富田 四日市宿 一里?、桑名七里の渡し 二里半 東海道総合案内 現在地から左側(南方向)へ進む 四日市市掲示板の先に『四日市市立富田小学校』 校門左側に 中央(黒い)に『明治天皇御駐輦跡』の石碑 東海道400周年記念 平成13年建立 「東海道」石柱 明治天皇御駐輦跡 維新の偉業もようやく成って、明治天皇は江戸を東京と改称された。 明治元年(1868)9月20日、車駕にて京都を出発し東京へと向かわれた。24日には四 日市に御駐輦、翌25日富田茶町広瀬五郎兵衛方に御少憩になり、富田の焼き蛤を御賞 味になられ、10月13日東京へ入られた。 その年の12月8日、京都へ帰られる途中、19日に再度広瀬方に御少憩になられた。 翌明治2年3月7日、京都をお発ちになり、神器を奉じていよいよ東京に遷都される時 3月15日またもや五郎兵衛方に御少憩になられた。 明治13年陸軍大演習をご覧になるため県下に行幸になると、7月3日、五郎兵衛方に 四度目の御少憩になられた。 広瀬五郎兵衛方の敷地は東海道に沿い、現在の富田小学校正門付近から富田地区市民 センターにかけてであった。明治天皇御駐輦跡の碑は、侯爵近衛文麿の筆である 12:43 旧東海道を進むと十四橋 十四川には桜並木(上流側) 桜の葉の紅葉が綺麗であった 十四川堤の桜並木 富田の町を西から東に流れる十四川堤の両岸1.2kmに渡ってソメイヨシノが約800本 植えられています。毎年見事な桜並木となり、満開のあとは桜吹雪となって散る姿に も味わいがあり、花見客で大変賑わいます 十四川の下流側の左側にお寺。 この桜の歴史は大正12年に地元製網業を営んでいた伊藤勘作氏ほか有志により植樹し たのが始まりで、昭和53年には開花ぶりが良いと「日本さくらの会」より全国表彰を 受賞しております。 現在は桜の名所を守り育て後世に伝えていこうという願いから、富田地区住民により 大切に管理しております 12:45 門前からの『成徳山善教寺』 所在地:三重県四日市市南富田町7-3 門前の石碑には、国宝 阿弥陀如来立像、真宗高田派 成徳山善教寺 山門と鐘楼 成徳山善教寺(じょうとくざんぜんきょうじ) 昔、このあたりを海戸尻と呼んだ。そこに、地域の篤き願いの人々の信仰の場、海戸 尻道場があった。成徳山善教寺の前身である。 寛正のころ(1460~66)東海・北陸地方を布教中の真宗高田派十世真慧上人が当道場 に名号・野袈裟と御書を授けられたと、伝えられている。残念ながら当時のものは現 存しないが、慶長15年(1610)同高田派十三世堯真上人より新たなる名号・野袈裟が 下付され、今も本堂に祀られている 元和3年(1617)11月28日本山より「善教」の寺号、正徳元年(1711)8月12日「成徳」 の山号が授与され、明和8年(1771)7月7日釣鐘が許可された。 本堂は、三代目の堂宇(専修寺如来堂模倣)で、それまでの本堂が築約200年を経て老 朽化したため、昭和10年(1935)再建、客殿(書院)を新築した 境内西側の収蔵庫には、国指定重要文化財「阿弥陀如来像」が安置されている。 木造阿弥陀如来立像 像高79cmの桧材寄木造りで玉眼・漆箔が施されてあり、いわゆる安阿弥風(鎌倉時代 初期の仏師快慶の穏やかで優美な作風)の来迎印を結ぶ通形の像である。 昭和28年同像を修理したとき、胎内から般若経、阿弥陀経、尊勝陀羅尼、摺仏、作善 願文、作善日誌が発見されました 善教寺本堂 12:50 旧東海道を南下すると街道左に『常夜燈』 常夜燈は神に捧げる灯である。神社の境内にあるときは献灯であろうが、町の中や街 道で見る常夜燈は、それぞれの意味を持っている。桑名川口より伊勢までは、神宮へ の導光であろうと思われる。碑表には「常夜燈」と刻まれ下に「氏子中」とある。 碑陰(裏)には「天保十己亥年」(1839)とあり昔を伝えている 旧東海道沿いの民家の軒先 旧東海道沿いに建つ『大東亜戦争殉?士 慰霊塔』『忠魂碑』 薬師寺山門の右側にある 12:52 浄土宗 薬師寺山門 所在地:三重県四日市市南富田町10-32 浄土宗 薬師寺 51代平城天皇の大同年間(806~10)の頃、このあたりに百薬に手を尽くしてもなお治 らない疫病が流行し諸人は大変苦しんでいた。このことを東国の旅の途中に知った弘 法大師は、ここに足を止め、薬師如来を掘り開眼した。すると、たちまち夕立の雲の 晴れるがように諸人の難病は平癒していった。諸人は弘法大師に感謝するとともに、 城山にお堂を建ててこの薬師如来を祀ったという その後、茂福城主朝倉下総守盈盛は、ここを菩提寺として、大伽藍を建立し、報乳山 洪恩寺と号したが、永禄10年(1567)に、滝川一益の兵火にかかって焼失した。この とき本尊は自ら火中を逃れて、門前の松に避難され光明を放っていたのである。諸人 は再度の奇跡に深く感じて、翌年現在地に草庵を結び本尊を祀った。 その後、桑名船場町の十念寺の芳誉上人によって、再建されたと伝えられている。 現在、本尊薬師如来は秘仏として扉は閉ざされている。当地唯一の尼寺である 薬師寺前の民家の紅葉 ズームアップ 12:54 旧東海道を南下 この辺りは、民主連合? 岡田かつや氏の地盤 12:56 浄土真宗本願寺派 光明山常照寺 所在地:三重県四日市市茂福町31-34 光明山常照寺(こうみょうざんじょうしょうじ) 天文7年(1538)釈法導によって開山された。 寛文年間(1661~73)に、それまでの天台宗から浄土真宗本願寺派に転派して以来400 余年今日に至っている。境内左側小堂には千手観音像が祀られている。明治18年住職 大忍のころ矯風会(茂福町内会)より預かったものであるが、百余年を経た今も毎年8月 18日のお参りが続けられている 光明山常照寺山門 鐘楼と本堂 本堂は明治42年(1909)に再建され、鐘楼・山門は明治の末に建てられた。 平成7年11月本堂・鐘楼の屋根の修復が行われた 親鸞聖人御像 大寺の 甍の反りや 秋の雲 鐘楼の鐘は昭和27年(1952)3月、四日市大博覧会において「平和の鐘」として展示さ れたものを当寺が譲り受けたものであり、池の間には常口の歌「一筋に世界の平和祈 りつつつくやこの鐘永久にひびけと」が刻まれている 12:59 旧東海道をさらに進むと道路角に『新設用水道碑』の石柱 新設用水道碑、力石 新設用水道碑の由来 明治35年(1902)頃より、大字茂福地内の耕地整理事業が行われ、十四川の改修工事に 伴い茂福町へ流れる水路がなくなり、東茂福町の水田に水が入らなくなりました。 そこで此の碑より北西に十四川の中間より760米(7町)の暗渠による水路を通じ各家々 の敷地内に(マンボ)を設置して、明治37年(1904)8月完成より、大正・昭和中期まで、 生活用水・防火用水として利用をしていました。 しかし、東茂福の水田地帯に国道1号線の開通に伴い水田は埋め立てられ、その後昭和 34年(1959)伊勢湾台風の水害により暗渠に土砂が流れ込み、また水源地の十四川の環 境悪化のため、此の用水道は消滅しました 力石の由来 明治の中頃、この村にある二ヵ寺のお堂を再建するにあたり各所より土台石の奉納が あった。また、御堂の地築(地固め)に、近郷近在より奉仕の人々が集まった。 その節、土台石の中よりこの石を運び休憩時に体力を試さんと持ち上げ競いあったと 伝えられている。その後、茂福地区の青年若衆が大正の終り頃までこの石で力比べを して競い合ったという。・・・・・・・・・・・ 既に弥次さんは先行して進んでいる この角を南東方向へ曲がり、100~200m進んで南西方向へ進む 13:01 この先を右に曲がる 角を曲がるとすぐ右手に 浄土真宗 林光山證圓寺(りんこうざんしょうえんじ) 所在地:三重県四日市市茂福町18-26 證圓寺の山門 林光山證圓寺 当時は、天台宗であったが、天文(1532~55)のころ住職が浄土真宗本願寺の第十世 證如上人に帰依して改宗したと伝えられている。 その後、永禄10年(1567)、茂福掃部輔盈豊が滝川一益に謀殺され、茂福城が落城す るや、臣林玄證は盈豊の遺子(当時2歳)を敵より隠し、ひそかに鍋坂の村中に逃れて 養育し、成人の後、我が娘と娶わせて家督を譲った。遺子すなわち林三郎佐衛門盈景 およびその末葉は茂福證圓寺住職になる。 境内には、開法蔵があり、一切経を初め多くの経文が収蔵されている 鐘楼と本堂 境内には、仏足跡や親鸞上人像が見られる 境内には古木多く、緑の松、黄色の銀杏、紅の紅葉と秋の彩りはみごとである 13:04 旧街道に出て林光山證圓寺を振り返る 旧東海道はこの先を左から来た(北方向) 桑名宿~四日市宿ー続く お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2020.02.15 03:00:06
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