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カテゴリ:東海道53次
大野小学校前から街道を進む。
2/22(土) 10:17 小学校から数百メートル先の左側(南)に『浄土宗 明鏡山 長圓寺』の石柱 長圓寺山門 所在地:滋賀県甲賀市土山町徳原77 山門を入り本堂へ 長圓寺本堂庫裡「竣工記念碑」 長圓寺の由来 はじめ長圓寺は禅宗にして明鏡山と号す。文明の頃、兵火に罹り堂宇消失す。其の頃伊勢参宮の 僧之を見て悲しみ村民を集めて再建を謀り遂に一堂を建つ。天正7年(1579)禅宗を改め浄土宗と なり安土浄厳院の末寺となり近世水口大徳寺の末寺に転ず。安政5年(1858)11月14日の夜火災の ため堂宇消失す(甲賀郡史による)。その後再建され現在に至るまで約150年風雨風雪に耐えてきた が頓に危機感を憶える程に老朽化が進み護寺は甚だ難しく、檀信徒の願いをかなえるべく・・・・ 本堂の扁額「長圓寺」 10:22 右側の民家の庭先に石柱 旅篭 吉野家跡 街道左側には屋号『指物屋』 東海道大野村 指物屋 10:27 旧東海道を進むと左側に『三軒家集会所』 同じ敷地内に新しい社が建つ 旧東海道をはさんで『三軒家集会所』の北側にある『大野公民館』 中央に『鴨長明の歌碑』 「あらしふく 雲のはたての ぬきをうすみ むらさきへ渡る 布引の山」 布引山は名山であり、また歴史舞台であった東西三里の間、布を引く如く。春はたなびく春がすみ、 夏は松の緑に映え、秋は月にさえ積もる雪も美しき雪の朝、山の姿うるはしく、春夏秋冬それぞれ 趣あり。平安の昔より阿須波道を行ききし斎王群行や、大宮人参宮の旅人によりて詩に歌によまれ てきた。有名な歌人、鴨長明もこよなくこの布引山を愛し、詠まれた歌がある。・・・・・・・・ 公民館の前に建つ「あいの土山観光案内図」はお疲れ気味 街道沿いに建つ碑は『眞風軒(しんぷうけん)の漢詩』 漢詩は『過土山即興』 土山を過ぎて即興する。 採茶の時節、事匁忙す。 緑髄の青芽壮なり 僻郷に 清風あり。一瀹、君知るや否や、 遠きに到る。紅洋黒漠として香し。 眞風軒(しんぷうけん)という人は、「眞風軒詩鈔」という漢詩の本を作られており、甲賀郡内を あちこち散策され、各地の風情を漢詩にしておられる人で、江戸時代後期から明治時代にかけて の人であります 赤茶色の旧東海道を進む 旅籠 井筒屋 左側に石柱 旅籠 中屋 跡 左側の民家の格子は新しい 最近の格子は木製、アルミ製があった 旅籠 日野屋 跡 江戸時代の街道筋は旅籠が立ち並んでいたようだが、土山宿では飯盛女はいなかったと 明治天皇聖蹟 10:36 安井酒造場 所在地:滋賀県甲賀市土山町徳原225 お土産に購入したかったが、持ち歩くのであきらめる 小さな酒蔵で直売している、酒は「蔵元 地酒 初桜」 街道の向かい側(北側)にも『安井酒造場』、敷地内に『旅籠 金屋 跡』 旅籠 田畑屋 跡 10:38 国道1号線に突き当たる 右側に石碑がある 石碑は『三好赤甫先生をしのびて』 師の訓を 座右の 銘とし 汗に生く 三好赤甫旧跡 三好赤甫(みよしせきほ)(1798~1873)は、待花園月坡と号し、通称才市と呼ばれた。生家は代々 魚商であったが、少壮より俳諧に親しみ、嶬峨上田村の宍戸霞洲に就いて教えを請うた。その後、 家業を子に譲って京都へ上がり、東福寺法主虚白禅師に就いて十年余り研鑽を深めた。その間、 京・大阪の斯道の諸大家と広く交わった。 その後、郷里に帰って後進を指導し、この地方の俳諧の基礎を築いた。俳著に『窓あかり』がある。 明治5年10月19日、75歳で没し、ここから北側の「若王寺」に葬られている。 碑銘「ほととぎす 早苗に影を のこしゆく」 三好赤甫の子孫が経営しているのか、『会席料理 みよし 赤甫亭』の看板。 かなりの老舗であると、またいつの日か田舎への帰途に立ち寄るか! 所在地:滋賀県甲賀市土山町大野2175 交差点の角に地蔵像があり、石碑が 石碑には「布引山・・・・・・」と刻まれていたが。 素朴な大日如来の石仏? 交差点に『若王寺』の案内板 交差点から旧東海道を振り返る 10:40 国道1号線の大野交差点 道路標識は、大津:43km、甲賀市街:7km、今日は後約7km程歩くのだ。 旧東海道はこの交差点を渡り北側へ進む 土山宿~水口宿-続く お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2020.04.23 03:00:06
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