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カテゴリ:東海道53次
国道1号線の大野交差点を渡り、北側へ進むが、『浄土宗 若王寺(にゃこうじ)』へ立ち寄る。
2/22(土) 10:41 交差点を渡ると『浄土宗 布引山 医王院 若王寺』の石柱。 先程の、三好赤甫が葬られている寺院である、路地正面に山門・鐘楼・本堂が見える。 所在地:滋賀県甲賀市土山町大野1856 鐘楼・山門 寺の門は、甲賀古士大野家の門を移築した。門の前の石橋は、寛政年間、四国の阿波国の斎藤某 が、伊勢神宮の帰途にこの寺で子供を授かることを祈願したところ、子宝に恵まれたため、それ に感謝し、享和元年(1801)3月に、この橋を寄贈した。 昔の人は信仰心があったのだと、それに比べ最近の我々は寄贈という言葉が・・・・・・・ 浄土宗 若王寺 本堂 安土の浄厳院の末寺で、本尊は薬師如来である。起源は古く、最澄(伝教大師)がこの付近に草寺を 建立し、その後諸堂を増築し、一大寺院になったと伝えられている。往古は天台宗の寺であったが 天正年間(1573~1591)の兵火に遭い全焼した。その後、仮の堂が建てられ承応2年(1653)に改宗 して浄土宗の寺となり、信長の命により安土の浄厳院の末寺となる。万治元年(1658)に本堂がで き、宝永8年(1711)に再建、寛政年間(1789~1800)に瓦葺の本堂になった 本堂前から、山門・鐘楼 10:45 旧東海道に戻り「若王寺」を振り返る S 字カーブの旧東海道、スピード制限は30km「通学路のため車はスピードをひかえめに」。 このようなカーブはスピードを出しすぎてハンドル操作が・・・・・・ 街道脇の花壇に咲くクロッカス 曇り空に紅梅 10:50 土山宿から出ているがこの辺りにも『旅籠 東屋 跡』があったのだ 下は国道1号線の徳原交差点、旧東海道は県道183号線を越える 学童がいるのか飛び出し坊や 単純な街道を進む 屋号、東海道大野村『瓦屋』 街道脇には「土山茶」の茶畑 単純な街道を進み、前方に国道1号線の大野西交差点が見えてくる。 ここまでの歩数は、15,500歩 11:08 大野西交差点の手前角に『東海道 土山宿今宿 石碑』があり、常夜燈が建つ 交差点から旧東海道を振り返る。 名神名阪連絡道路の早期実現を! 国道1号線を振り返る。 常夜燈には『東海道 土山宿今宿』の刻み 国道1号線を渡り振り返る 旧東海道は大野西交差点から斜め左方向の県道549号線へ進む。 左は「甲賀市水口」の標示、西の空は雲がより厚くなるがどうにか雨は降らず 11:10 街道脇に大きな『水口宿』。 旧東海道はこの先を右方向へ進む 昨年の8月にもここでこの案内板を見た 甲賀市をズームアップ この先の三叉路を右方向へ 11:14 県道549号線から右に入り緩い坂を登るとすぐ右手にあった案内板。 今郷歴史街道マップ『東海道と里山の須恵器の里』 9カ所の史跡・名所の紹介 所在地の地図だが すぐ横にあったのが『9.稲川碑』 稲川端に立つこの石碑は稲川碑と呼ばれており、石碑の下からは今も清水が湧き出ています。江戸 時代には東海道を行く旅人が喉を潤していました。碑文によれば、天保4年(1647)水口城代の山口 重成(即翁了心ともいう)が土山宿と水口宿の間には飲み水がなく旅人が困っていたため、稲川沿い に井戸を掘って、水を湧き出させたと言われています。この碑文は延宝4年(1676)、先人の功績を 讃えるために建てられたものです。 また、村の言い伝えでは、源平合戦のさ中、平景清が敵の矢に目を打たれ、東海道まで落ち延びた 折、稲川端の清水で目を洗うと、たちまち血涙が止まったとのことです。いつしか村民はこの水を 景清の目洗い水と呼ぶようになりました 緩い坂を登ると直ぐ街道の左手に『8.経 塚(KYOZUKA)』 8.経 塚 お経を埋めたと伝えられる小高い墳丘状の塚で、鈴鹿山経塚とも呼ばれています。経塚は一般に、 平安時代の末法思想とともに発展し、経典を経筒に納めて埋めたり、江戸時代には小石にお経を かいた一字一石経などを埋めることが流行し、個人の祈願や追善供養、積徳の行として行われま した。この経塚は、延暦20年(801)、このあたりに化け物が出没したため、大般若経を読んでこ れを鎮め、その後、村人がこのお経を土中に埋めて塚とした言い伝わります 小雨が降り出し、街道の左側には『古民家 カフェ 一里塚』の看板 二階が低い『古民家 カフェ 一里塚』 、OPEN と 軒下には多くの薪が積まれていたが暖炉でも? 所在地:滋賀県甲賀市水口町今郷592 11:20 前方に背の高い木が現れる。 ここも昨年8月に訪れているのでかって知った場所である。 ここまでの今日の歩数は、16,300歩 この辺りには一里塚は、泉・林口・今在家(現在地近傍)の三箇所に存在しました。 塚本体は高さ数メートルにおよぶ大きなもので、塚上には榎の木などを植えて目印としました。 行程の目安となり、また日影を与えてくれるものとして親しまれましたが、明治維新後は撤去され てしまいました お江戸日本橋から112里目の一里塚 7.今在家一里塚 江戸日本橋から112里目にあたり『今在家村地券取調総絵図』によれば、今の位置よりも東にあり、 また道を挟んで両側に対に築かれていたことが描かれています。江戸時代の一里塚は明治の初年に 撤去され、現在の一里塚はその後、復元されたものです。今は塚の上に榎が植えられていますが、 かつては桜が植えられていたと伝わります 一里塚から振り返る 塚の手前に『地蔵院 権現山 浄土寺』の石柱 土山宿~水口宿ー続く お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2020.04.24 03:00:05
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