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みっち3167の日記 [全158件]

2012.05.31楽天プロフィール Add to Google XML

義母との27年・その7
[ 夫の母 ]  

母の引っ越し7回 ・その2

胆石
母は若い時も胆石手術をしているそうだから、胆石のたまる体質らしい。
あれは本当に痛いらしい。
我が家の長男も胆石をやったから、家系かなと思ったりしている。

母の胆石の手術の時はこんなことがあった。
入院して手術をするか、薬で流すか、決まっていない時期があった。
母はせっかく就いた仕事のことも気になったのだろう。

母は私たちに
「日野市によく当たる祈祷師がいるそうだから、是非拝んできてほしい。私の病状を聞いてきてもらいたい」と頼むのである。
どうも見舞いにきた近所の奥さんにその祈祷師のことを聞いたらしい。

私や夫は加持祈祷など、全く信じないタイプである。

しかし、その時夫は
「馬鹿らしいが、母の精神安定のためだ。行ってきてくれないかなー、親孝行と思って、頼むよ」と私に頼むのである。

「えー!私が行くのー!私は絶対嫌。あなたが行ってきたら!!」
口をついて出そうだったが、グッと飲み込んだ。
なんだか夫を行かせるにはあまりにも気の毒な気がしたのだ。

「いいよ、仕方ない。私が行ってくる。親孝行はつらいねー」と返事し、行く決心をした。
次の日、子供を負ぶって電車バスを乗り換えその場所に出かけた。

会場はお寺の本堂のような広い場所で50人ぐらいの人が静かに順番を待っている。
なんだか暗くて異様な雰囲気。

現代の世の中でこういうことを真面目に信じている人がいることに驚いてしまう。

一時間ぐらい待って順番が来た。
白い着物を着た普通のおばさんが、私にいろいろ質問したあと、お祓いみたいなことをして目をつむって拝んでいたが、やがて口を開いた。
「胆石は手術が必要です。ピンク色の石が3個ほど、見えました」と答えた。

占い料は忘れたが「こころざし」というお礼を払って帰った。一日がかりの親孝行だった。

今考えると、あれはあれでいい経験だったと思う。
母のおかげで不思議な世界を見させてもらった。

胆石の手術は無事終わった。胆石はピンクではなく、小さめの灰色の石が沢山出てきた。

母は仕事を退職したので、ゆっくり静養したが、快復すると詩吟を習い始めた。
詩吟の友達も増え、一緒に旅行したりした。



061.JPG  総領孫と


この詩吟が縁となり、母に思いがけない仕事の話が飛び込んでくる。
同じ町内で車で5分のところに特別養護老人ホームができるというのである。
母が友達になった詩吟のお仲間のI老婦人が町の名士だった。
I夫人は新施設の経営者で、母を見込んで寮母長として是非働いてもらいたいというのである。

退屈していた母は渡りに船、その仕事に飛び込んでいくことになる。
施設開設までの半年ぐらい、都心に研修にでかけたり、施設の備品揃えなど忙しい日々が始まった。

母は53歳。開設準備員でもあり、最初から管理職、人の上に立つ仕事に向いている母は水を得た魚のように働きはじめるのである。

母の来客もおおくなり、何としても母の部屋は狭すぎたので、2階に母の部屋を増築した。
孫も増え1階は手狭にもなっていた。
6畳の和室と3畳の台所とトイレを増築した。

昭和50年のことである。
これで母の引っ越しは5回目になる。が、まだまだ続くのである。

058.JPG


道子のパソコン水彩画三昧



最終更新日時 2012.06.03 08:46:38
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2012.05.22

義母との27年・その6
[ 夫の母 ]  


母の7度の引っ越し・その1


母が上京してから、最初の3年ぐらいは、第二の人生探しで、挑戦の時期だったと思う。
母が自分の生き方や自分の置かれた位置に満足し、幸せをつかむまでには時間がかかった。

先回書いた、二階で母と息子の二人だけの話し合いの直後
母は「私の好きにさせていただきます!」啖呵をきり、かってに二間の部屋を探し、さっさと家を出て行ってしまった。

夫は
「しばらく母の好きなようにさせてみよう」「親戚や他人の目は気にするな」と私に言い、母の引っ越しを黙々と手伝った。

あの時母は「息子に捨てられた」という思いが強かったと思う。

母の故郷から持ってきた荷物は布団、箪笥、丹前、棚と多く、我が家の4畳半には収まりきれなかった。特に柿の箪笥はいいものだった。

それに、母は上京するまでは,気兼ねのない一人住まいで、間口は狭いが中庭を挟んで奥まで二棟続く商家の家に住んでいたから、息子の家の空間はなんとも窮屈だったに違いない。


母は間借り生活6カ月もしないうちに、大家さんと喧嘩して戻ってきた。
間借りなので、大家のおばさんが勝手に部屋に入ってくるとか不満を言っていた。

次に市営住宅風の1戸建てを借りて、再び出ていったが、理由はなんだったか忘れたが、これも半年で戻ってきた。

あの頃の母は何もかもが気にいらず、攻撃的でいつも何かに腹をたてていた。。

036.JPG
今日もおでかけ037.JPG
可愛くて可愛くて!!



次は、「私は住み込みの仕事をします」といって、新聞で見つけた仕事の採用試験を受け、独身寮の寮母になって出ていった。
紳士服既製品メーカーの男子寮である。
食事も作る寮生のお母さん役のような仕事だった。

人の面倒が大好きで、情の深い母は寮生たちに慕われ、仕事は順調のように見えたのだが、上司と折り合いが悪くなり半年でやめて帰ってきた。

彼女は正義感が強く、物事を黒か白か即決しなければすまぬ性格で、「自分を誤解された」とを怒って帰ってきた。

息子は「お母さん、世の中は 白か黒ではなく 灰色のことが多いんだよ。もう少し大人にならなきゃだめだよ。」と諭したが聞かなかった。


次には 航空会社のスチュアーデスの寮母になった。
30倍の難関を突破したのだからすごい!
この試験は健康状態、親族調査、性格診断もある厳しいものだった。
この性格調査で母は「直情的、攻撃的な面がある」とデーターが出たらしい。
母は「私は優しい性格なのに、おかしいねー」とそれを認めたがらなかったが。


美人の知的な御嬢さん寮生から慕われ、人生相談なども受け、母には打ってつけの仕事だった。
給料もよかったので、これは長続きするだろうと私たちは思っていたのだが、
ある日会社から「猛烈な腹痛を起こしている苦しんでいる」と連絡あり、夫が大急ぎで迎えに行き家に連れ帰った。

胆石と判明しすぐ手術を受けた。
直径1センチほどのセメント色のの塊状のが4粒ほどでてきた。
会社には一か月休むことを願い出たが、難色を示し、結局退職となった。

この頃の御嬢さんから母に何年も年賀状など来ていたから、ずいぶん慕われていたようだ。

手術のおかげで、母は久しぶりに我が家に落ち着き、のんびり過ごした。
私たちに甘えて療養し、お互いが平和な時期だった。
そのころ、佐賀に住む母の実姉が看病がてら上京し、一週間ぐらい逗留し、久しぶりの再会を楽しんだりした。

母のエネルギーが弱まり、静かにしている時は、我が家は平穏であった。
私も、母にしてもらうよりも、こちらが母にしてやるほうが好きで楽でもあった。



ここまでで母は上京後4回引っ越しをし、どれも1年たらずで戻ってきたことになる。

息子である夫はその度に、母の会社には頭を下げ、挨拶して母を荷物ごと迎えに行った。
彼なりに本当に大変だったと思うがが、彼は達観していた。

それからまだまだ母の引っ越し歴は続くのである。  次回に続く







最終更新日時 2012.05.25 06:55:33
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2012.05.08

義母との27年・その5
[ 夫の母 ]  

2階の夫の部屋で 母と二人きりで何か話している。もう一時間もたっただろうか。
そのうち母は涙を拭きながら降りてきた。
そしてガチャガチャとわざと大きな音をたてて台所で洗い物を始めた。

2階から降りてきた夫に
「お母さんになんて言ったの?」と聞くと、
「まだ若いから働いたほうがいいといったよ」とのこと。

夫は私と母のバトルを見ていて、解決法を考え、決心して母にいったようだ。
夫自身も、母の重い愛情に、参っていたと思われる。
夫は普段は口は重いほうであるが、決断したらはっきり物を言う人である。

「お母さんが60歳過ぎとか、体が弱いとかなら僕は何も言わないよ。
でもまだ50歳で元気だ。まだ人生30年もあるんだよ。

それにお母さんは能力があるんだもの、もったいない。
仕事を探して働いた方が、精神衛生上いいと思うよ。
家にばかりいたらストレスがたまるだろう?

家事育児は嫁さんにまかせて、孫は時々可愛がってくれればいいから。
母さんならが、自分の生きがいと楽しみをきっと見つけられるよ。

もちろん、お母さんの家はここだからね。他にはどこも行く所はないんだよ。
しばらくの間、頭を切り替えて
自由に生きてみたら?まだまだこれからだよ。」

というようなことを、言ったらしい。決して私が夫に言わせたわけではない。


何年もたってから母は、その日のことを思い出して私にこう言った。

「自殺しようかとおもったよあの時は。息子に捨てられたと思った。
優しい息子だったのに、嫁さんに味方して私にあんなことを言うなんて。
私は邪魔なんだと思うと悲しかったねー。

でも今は感謝しているよ。
息子の口で直接私にはっきり言ってくれたから、決心がついた。
あのことがなかったら、私の今の幸せないと思うよ」と。

その日から 母の第二の自分探しの旅が始まった。


そう言えば、結婚早々、それに似たことを 彼は私にもはっきり言ったのだ。
私もその時はショックだった。

「僕は全力で尽くしてくれるような、けなげな妻は苦手なんだ。
そんな人に人生をかけられると重すぎる。期待にそえないし。

お互いに自立した自分の世界を持った上で、平等に助け合っていこうよ。
君は能力があるんだから家庭以外に自分だけの世界を持った方がいいよ。
それに子供はあっという間に巣立っていってしまうよ。それからどうする?
自分の心の幸せは、自分で作っていってね」と彼は言った。


私たちの時代は「夫に全力で盡し、家庭的な嫁」が良しとされていたので私もそのつもりだった。
夫の提案は梯子を外された感じがした。
彼にとってのいい嫁さんとは「精神的に自立している嫁さん」であり「自分を束縛しない嫁さん」であり、そのうえで「要領よく気を使ってくれ、理解してくれる嫁さん」なのだ。

私はその時、昔ながらの「良い嫁,良い妻」の規範から解放された。
これもいいものである。
私の仕事や勉強や遊びに対して、夫はよく協力してくれたし
夫もよく一人で自由に旅や釣りにでかけた。
夫の提案を受け、私は自分を変え、まことにいい夫婦関係で今日まで来ることができたと思う。


子供たちの巣立った今、私は抜け殻症候群にもならず、時間をもてあますこともなく、
毎日楽しくすごしている。
夫はもちろん今も自分の世界を精進し、私も生きがいを持っている。


さて息子の言葉にショックを受けた母はその後どうしたでしょうか。

しばらくは母の産みの苦しみが続くことになるのだが、
私たち夫婦も、母が落ち着くまで、母の行動に振り回されることになる。

母は息子が叱咤激励しただけのことはある、あっぱれな女性であった。

041.JPG
おばあちゃんと遠足

016.JPG

5月11日、今届いた 息子夫婦からの母の日のプレゼント。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

2012年のカレンダー








最終更新日時 2012.05.20 08:38:30
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2012.04.29

義母との27年・その4
[ 夫の母 ]  

夫の仕事が商業や農業だったなら、同居した母は労働力としても重宝がられ、やる仕事もたくさんあり、毎日暇を持て余しイライラすることはなかったと思う。

または、逆に母が高齢で体が弱っていて、若い者に保護される立場だったら、
母との関係はうまくいっていたかもしれない。
しかし、母はまだパワー満杯の行動的な50歳だった。

教師の家には、働き者女二人分の家事の量はなかった。

電化製品の出現で家内労働は減り、洗濯が大変な布オムツも紙オムツ時代になっていた。

それに嫁の私も勝気で働き者。母と同じ火の国女である。
家事育児は一人でもなんなくこなすタイプで、週二日中学校の美術時間講師の仕事もし、
絵も描いていた。そして孫は保育園に通い始めていた。

母は上京するとき、若夫婦の手助けをし、いい姑になろうと、期待していたのに、することがなく、とまどったにちがいない。

母は行事を企画するのが好きな人で、できたらその中心でいたい人だった。
毎日曜日、母は早く起きて皆のお弁当をつくり、水筒も用意して、息子や孫の起きるのを待って、

「さあ、今日はお天気がいいよ、みんなで動物園はいかがでしょうか」と提案するのである。

働く若い者は日曜日ぐらい、家でのんびり過ごしたいのだが、
母の気持ちを組んで、皆で動物園や遊園地、サマーランドやデパートや山登りにでかけることになる。

希望で靖国神社にも行ったこともある。

夫は日曜日恐怖症になった。
彼はで自由人で、一人でアユ釣りなどをしたい人だった。

嫁の私からすれば、たまには夫と子供だけで出かけたいのに
「私は留守番するから、あんたたちで行っておいで」というタイプの人ではなかった。
いつも家族と一緒に行くのが好きだった。

後年、長男が小学生になると、休みの日の母のお伴は彼が引き受けてくれた。
二人で皇居参拝、靖国神社、その足で高尾山参拝をした強行スケジュールの正月もある。
本当にあのころの母は元気だった。
長男はいい思い出だという

季節行事も大好きで、おはぎや団子をよく作ってくれた。
七五三にはお赤飯やお餅を勝手に店に頼んできて近所に配ったり、孫娘には晴着を借りてきて着せ、客をよんだりした。

今思うと、すべてが楽しい思い出になっているが、
その頃の私は母に振り回されることへの不満もあった。
母の行動を受け入れられないこともあり、時々は「ノーサイン」をだした。

「勝手に決めないでください」とか
「今、もうお腹がいっぱいですからいりません」とか「私はパスします。」とか
「私がやりますから、おばあちゃんは座っていてください」とか・・
 また子供の育て方でも 意見がぶつかったりした。

母は誠意は受け入れられ、感謝されて当然という考えの人だったから、自分の誠意が拒否されると、カンカンになって怒って、3日も口を利かない時もあった。

本当に竹を割ったような気性の人で、怒る時も強烈だが裏はなかった。
 
「ああ、そうですか!!」とか「私はあんたたちの何なんですか」
「私ほどいい姑はいないのに」とか言って泣いたりもした。


そうしながら 一年が過ぎったある日 夫が口を切った。

045a.jpg

新築の家で義母も加わったお正月・
孫娘の晴着はおばちゃんが若い日の襦袢を解いて仕立ててくれました。

道子のパソコン水彩画三昧


最終更新日時 2012.05.15 17:06:22
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2012.04.22

義母との27年・その3

昨日(4月22日)NHKプレアムドラマ「オモニからの手紙」を夫と二人で見た。
韓国在住2世の東大大学院教授「姜尚中」が母と自分の来し方をかたるドラマでなかなか見応えがあった。

姜尚中氏は昨年のNHK日曜美術館に出ていて、なかなか深みのある話を知的ないい声で語る先生である。

彼のお母さんは韓国人、16歳で夫になる人のいる日本に渡ってきたそうだ。
彼の両親は屑鉄回収業を営み、母親は読み書きができないため、騙されたり、差別を受けたりしながら、二人の息子のために懸命に働き続けたという。
次男の彼は少年期、生まれゆえの屈折した精神の中で、勉強と読書にのめりこんでいく。

母は息子が自分を離れていく心配と、大学を出ても韓国人ゆえにいい職につけないだろうという心配で、彼の上京を喜ばなかったという。

彼はやがて上京し、さまざまのことにぶつかり、悩み、自分探しをしていく。
そして姜尚中という韓国名を名乗ることを自分で決めている。

息子は成長し、学問を深め、自分の理解し得ない世界へ行ってしまう、母親の取り残されていく悲しみや不安が丁寧に描かれていて、しみじみとした内容だった。

彼の夏休み帰省のおり、息子に字を教えてくれと頼み、自分の日本名を描けるけるようになったという。

オモニは80歳で亡くなられたそうだが、最後の場面の、「オモニからの手紙」が泣かせる。


番組の中で司会者の「オモニとは一言でいえば何ですか」という質問に
姜氏は「愛と桎梏(しっこく)」でしょうかね」と答えておられる。

桎梏とは辞書に「手かせ足かせ・自由を束縛するもの」とある。

私はこの「桎梏」という言葉にひかれた。
成長した子の 親から解放されたいという願い、「桎梏」に気ずかず、または気づいてはいても いつまでも子を恋いつづけるのが母親ではないだろうか。

それに息子が母親を思う気持ちは、娘と母の関係と少し違うような気がする。
離れて暮らせば、息子はなおさら、自分の不孝を詫び、母が愛しくおもえるようだ。

私の母も、夫の母も、女一人で子供を守り育てたから、子への情は濃い濃いものだった。

私は母たちの愛が重く、両親が揃っていて、夫婦で老後を生きてくれたら、どんなに子の気持ちは楽だろうとよく思ったものだ。

姜氏が「母親のことを愛と桎梏」と言われる気持ちがよくわかる。


思えば私たちと義母との同居は「愛と桎梏」の狂想曲であり、協奏曲であった気がする。


上京してきた時の義母はまだ50歳。

義母はその昔、「原節子に似ている」と言われたそうで、まだまだ女としての美しさが充分あった。

それに、仕事の能力充分、料理、裁縫は上手、書は達筆、歌や踊りもおてのもの。
明朗闊達、行動的あり、人に親切、真正直で裏がない、まさに火の国の女であった。

そしてその時の母のよりどころの全ては息子の家族であった。



13327a.jpg
桜満開・八王子霊園


道子のパソコン画作品集NO1













最終更新日時 2012.04.24 15:52:34
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2012.04.12

義母との27年・その2
[ 夫の母 ]  

先日 有吉佐和子作「華岡青洲の妻」のテレビドラマの再放送をみた。
一人の男をめぐる嫁と姑の壮絶な闘いの話であるが、
我が家の闘いは息子の愛を奪い合うというような形のものはなかった。

義母の家族全体への一途でエネルギッシュな愛情行動を受け入れ、
時には取捨選択し、自分たちの生活を母のペースに巻き込まれないようにしていくという
闘いであったような気がする。

考えようによっては、なんと贅沢な闘いであろうか。
世の中には冷たい、何もしてくれない姑さんが山といるというのに。
我が家は「してやりたい!」気持ちいっぱいの熱い心の姑さんなのだから。

ありがたいがことではあるが、姑の一方的なこの種の母性愛は、必ず感謝しなければならないとなると私にはけっこうしんどいものであった。


母は全身全霊で家族を愛した。
成長した孫たちは「おばあちゃんは、悪い子の時も、我が家の孫は一番!!と全てを容認し愛してくれた」と祖母を懐かしがる。

「向こうから手をつないで子供たちが歩いてくる中で、とびぬけて可愛いあの娘はどこの子だろうかと思ったら、近づくとやっぱり、うちの孫だった。」
と目を細めて言っていたものである。
自分を無条件で愛してくれた祖母の愛は孫たちの心にいつまでも残っているようだ。


母は自分の思うままに愛情を表現し、それを感謝をされたい、存在を認められたい、そして家族の中心でいたいというタイプの人だった。

だから、その行為が受け入れられないときは、母は機嫌をそこね、すぐ腹もたてた。

例をいえば、自分でいいと思い、喜ぶのを期待して買ってきた洋服を、嫁がいつまでたっても着てくれないとか、丹精込めて作った料理を孫が美味しいといって食べてくれないというような些細なことの不満の連続であった。


母が上京してきた時は息子夫婦は結婚して2年たち、それなりの家庭のリズム、夫婦の「あんうん」の家族ルールができあがっていた。

私たちには、昔の家制度は念頭になく、新時代の子育ても開始していた。
夫婦二人とも個性が強く、精進しなければならぬ自分の世界もあり、それぞれの時間や空間を大切にしていた。

だから、母の行為のすべてに感謝できないことも多々あった。
また今なら、「どうでもいいこと、母の好きなようにさせてあげればよかった」と反省することが沢山ある。私自身も未熟であった。


母にとっての同居は息子の家で確固とした自分の存在を示す闘いでもあったろうと
今になって思う。


8956.jpg 



道子のパソコン水彩画三昧






最終更新日時 2012.04.24 09:35:49
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2012.03.12

義母との27年・1
[ 夫の母 ]  

先日のお彼岸 夫と母たちのお墓詣りにいってきた。
「おばあちゃんの墓の前に立つと、元気な頃を思い出して、ついつい笑ってしまうねー、あの世でも元気で暴れているかねー」
と二人で顔を見合わ苦笑するのが常である。

墓の前に立つ今、義母に対しては、懐かしく愛しく思う気持ちだけが募ることを、本当に幸せだと私は思う。

義母は本当にいい人だった。勝気で邪気なく、怒って、泣いて、笑って、子供の様に無邪気に人生を生き抜いた人であった。

それゆえ私たち若夫婦の方は義母に振り回されることも多く、本当に疲れたというのも事実である。

夫は同居のおり、「あの性格のおふくろの面倒を見れるのは君しかいない。君ならきっとやり抜ける。よろしく頼むよ。」と頭を下げた。

私も「お姑さんの一人ぐらい面倒見れないでどうする。私はそんな弱虫ではない」という自信はあったし、事実、その役目を27年間投げることはしなかった。


17年前、義母との永遠の別れの日
「おばあちゃん、よく頑張って、精一杯見事に生き抜いたね、本当にご苦労さま」と声をかけた。
一方「やれやれ、私も責任を果たした。義母の濃い愛の鎖からやっと解放された」という気持ちも自然に湧いてきた。

実の母が亡くなった時は私はあんなに泣いたのに、と不思議な感情だった。
血のつながりの違いももちろんあるだろう。

また、実の母は心の中に数々の悲しみや煩悩を抱えたまま亡くなった、という思いが私にあり、母が哀れで愛しくてならなかったが
義母の時は、義母の心にさしてもう大きな憂いは無く、心は平和ではなかったろうかと思えたからでもある。

どちらの母も母性愛の塊の人だったから、別れの時の不思議な解放感は同じであったが・・

義母に対して、自分の至らなかった後悔の念は種々ある一方、マラソンの有村さんではないけれど「道子!よく頑張った」と義母を最後まで看た自分自身を褒めてやりたい気持ちもあった。

夫も「よくやってくれた。本当にありがとう」と頭を下げてくれた。


義母との懐かしい日々、数々のバトル、27年の思い出を少し書いてみようかと思う。

義母は、「道ちゃん 私が死んでから一方的に書くなんて、不公平よ。私には反論のチャンスはないのだからね!!」と怒るかもしれない。

義母とつぶさに生活した27年には本当にいろいろなことがあった。
その年月は私の人生観を変え、私を成長させてくれた気がする。

義母から沢山のものをもらったと今になって感謝している。


義母は私が結婚した時
「元気な時は一人で頑張るけど、年を取ったら よろしくお願いします」と私に頭を下げた。
私も当然のことと、年老いた母を看る覚悟はしていた。

ところがである。 50歳の若さの母と同居することが、母からの希望で、「あれよあれよ」といううちに決まってしまった。

初孫は女の子、その可愛さに、母は孫と離れて住むことに我慢できなくなり、郷里での仕事を(そのころ保母助手をしてた)さっさと辞め、古い持ち家を売り払い、借金なども全て整理しいそいそと上京してきた。

母子家庭で一人住まいの長かった母にとっては、長男夫婦との同居は長い間持ち続けた夢の実現であったとろうと思う。

やっとやっと、子や孫に囲まれた楽しい老後がやってくるのである。

狭い職員住宅では同居は無理なので、ローンを組んで、2階建ての新居を構えた。

夫の書斎も設け、けっこう広い家で、その費用の一部を母が手伝ってくれ、一階に4畳半の母の部屋もつくり、母との同居が始まったのである。

母50歳、孫2歳、夫と私28歳の時であった。

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道子のパソコン水彩画三昧




最終更新日時 2012.05.02 09:58:20
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