全て
| カテゴリ未分類
| 子供の頃
| 母
| 読んだ本
| 父
| 夫の母
| 家族
| 五日市の頃
| 栄養士時代
| 孫息子の卒業研究・猫の保護
| 戦争
| 蓮
| 投稿・掲載文
| 失敗談
| 水彩8・パソコン画
| 克敏の歌
| 田端克敏の歌
| 田端克敏の書
| 厦門の風
| タジキスタン
| ロシア・マガダン
| 北京の風
| 済南の風
| 広州
| 日本語教育
| 展覧会
| 水彩画
| 克敏のスケッチ
| 2020 パソコン画
| スタンプ
| 2021 パソコン画
| 2020 パソコン画
| 散歩の花
| 恒河沙展
| 2022 パソコン画
| 夫婦二人展
| 2023パソコン絵画展 永山 道子最後の参加
| 2023 パソコン絵画展
| 友人の展覧会
カテゴリ:母
未亡人となって 未亡人とはなんと酷なことばでしょうか。 未だ死なない人ということでしょうか。 母は34歳で未亡人となりました。 そして私たち子供は弟3歳、私4歳、兄7歳で戦争遺児とよばれました。 この呼び方も「そのまんま」の表現で好きになれません。 満州から引き上げてきて、父の戦死がわかった時、母は 「何故、3人の子を置いてお父さんは自分だけ死んだの?あまりに勝手ではありませんか。どうやって私一人でこの子等を食べさせ育てていけばいいの?」と父を恨めしく、ののしりたい気持ちだったそうです。 しかし60歳を過ぎた母は 「戦死したお父さんほど気の毒な人はいない。あんなところで野垂れ死にして。 今思うと可哀想で、可哀想で愛しくてならない。 立派に成長した我が子を見ることもなく。可愛い孫を抱くこともできず たった35歳で死ななければならなかったなんて。 私だけ子供たちと過ごさせてもらって申し訳ない気がする」といっていました。 そしてこんなことも言いました。 ケネディー大統領が暗殺された時のことです。 葬儀でのケネディー婦人と二人の遺児をテレビで見ながら 「この方はお金持ちだからお気の毒だ。 私は無一文だったから、あれこれ考える暇もなく無我夢中で、 「子供に食べさせる」ことだけ考えて生きてきたけれど、 お金がある未亡人は働かなくていいのだからかえって、切なく苦しいだろうと思うよ。」と 母がどういう意味でそういったのか・・ 暇や時間だけがあると夫を恋う時間だけが続くということか・・ 女としての悲しみがつのるということなのか・・ しかし、母のこの心配は無用でした。 ケネディー婦人は再び恋をし、第二の人生に羽ばたいていきました。 お金があれば子育てと恋の両立も出来るのでした。 しかし彼女が本当に幸せだったかどうかはわかりません。 未亡人となった母は、事情があり、父の実家にも母の実家にも頼れることはできませんでした。 最初は物の売り食いです。父が趣味人でしたので、いろいろのものを持っており、特にドイツ製の高級一眼レフカメラは、親子の長期の食料になったそうです。 最初は遺族年金もありませんでしたから本当に大変でした。 従兄弟一家が優しくしてくれ、温泉で手伝わせてもらうことができて幸運でした。 母は田舎への食料買出しのついでに商みたいなものも始めました。 あの頃は誰もが貧乏で食べることに必死でした。 大きな荷物を背負ってよく出かけていました。 小学校は1クラス50人もの多い生徒数でしたが、その中に10人位は戦争遺児や未帰還兵を父に持つ母子家庭児がいましたから、馬鹿げた戦争をしたものだとつくづく思います。 プロフィール 道子の水彩画三昧 道子のパソコン水彩画作品集 日本語教師の思い出 道子のパソコン水彩画通信教室 綿の花 タジキスタン お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2008年12月07日 14時34分55秒
コメント(0) | コメントを書く
[母] カテゴリの最新記事
|