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  新 つれづれ日記     

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2008年11月28日
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カテゴリ:

未亡人となって


 

haha

未亡人とはなんと酷なことばでしょうか。
未だ死なない人ということでしょうか。
母は34歳で未亡人となりました。

そして私たち子供は弟3歳、私4歳、兄7歳で戦争遺児とよばれました。
この呼び方も「そのまんま」の表現で好きになれません。

満州から引き上げてきて、父の戦死がわかった時、母は
「何故、3人の子を置いてお父さんは自分だけ死んだの?あまりに勝手ではありませんか。どうやって私一人でこの子等を食べさせ育てていけばいいの?」と父を恨めしく、ののしりたい気持ちだったそうです。

しかし60歳を過ぎた母は
「戦死したお父さんほど気の毒な人はいない。あんなところで野垂れ死にして。
今思うと可哀想で、可哀想で愛しくてならない。
立派に成長した我が子を見ることもなく。可愛い孫を抱くこともできず
たった35歳で死ななければならなかったなんて。
私だけ子供たちと過ごさせてもらって申し訳ない気がする」といっていました。

そしてこんなことも言いました。
ケネディー大統領が暗殺された時のことです。
葬儀でのケネディー婦人と二人の遺児をテレビで見ながら
「この方はお金持ちだからお気の毒だ。
 私は無一文だったから、あれこれ考える暇もなく無我夢中で、
「子供に食べさせる」ことだけ考えて生きてきたけれど、
お金がある未亡人は働かなくていいのだからかえって、切なく苦しいだろうと思うよ。」と

母がどういう意味でそういったのか・・
暇や時間だけがあると夫を恋う時間だけが続くということか・・
女としての悲しみがつのるということなのか・・

しかし、母のこの心配は無用でした。
ケネディー婦人は再び恋をし、第二の人生に羽ばたいていきました。
お金があれば子育てと恋の両立も出来るのでした。
しかし彼女が本当に幸せだったかどうかはわかりません。

未亡人となった母は、事情があり、父の実家にも母の実家にも頼れることはできませんでした。
最初は物の売り食いです。父が趣味人でしたので、いろいろのものを持っており、特にドイツ製の高級一眼レフカメラは、親子の長期の食料になったそうです。

最初は遺族年金もありませんでしたから本当に大変でした。
従兄弟一家が優しくしてくれ、温泉で手伝わせてもらうことができて幸運でした。
母は田舎への食料買出しのついでに商みたいなものも始めました。
あの頃は誰もが貧乏で食べることに必死でした。
大きな荷物を背負ってよく出かけていました。

小学校は1クラス50人もの多い生徒数でしたが、その中に10人位は戦争遺児や未帰還兵を父に持つ母子家庭児がいましたから、馬鹿げた戦争をしたものだとつくづく思います。





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最終更新日  2008年12月07日 14時34分55秒
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