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カテゴリ:母
「母の夢は果てなく明日に」その2
1981年 母の友(福音館) 3月号掲載 明治45年、母ひろ子は、飛騨の萩原という町の戸谷家の長女として生まれた。 分家を幾つも持つ旧家であったが、没落し家族も多く、生活はそれほど楽ではなかったようだ。 金沢医専出の父親は学者肌の人で、本当は医専にそのまま残りたかったが、指折り数えて待つ家族の生活を支えるためにやむなく故郷で開業医になったという。 母の記憶に残る父親は大変優しい人で、夜中、それもどんなに雪の深い日でも急患の往診に出た。しかも貧しい人からは決してお金を受けとらない。 母の母(私の祖母)は、毎日の生活のやりくりに疲れ、夫の体を気づかい、わが息子は医者にするまい、娘は医者に嫁がすまいと思ったそうである。 その父親が母10歳の夏、1ヶ月ほど昏睡状態のあげく不帰の客となる。その頃「眠り病」といわれたが、日本脳炎のようなものではなかったろうか。 葬式の日は近隣の村々からたくさんの人々が参列し、その列は1キロ以上にも及んだとは母の語り草であるが、それだけ徳が慕われていたのだろう。この父親の生き方は10歳の母に強烈な印象を残したようだ。 5歳のころの母と ちいばあさま 「このちいばあさま」とは小さいおばさまという意味である。 この方は出戻りの母の叔母で永年共に生活していた人である。 母はこのちいばあさまの秘蔵っ子で実の母よりなついていたという。 井上靖の小説「しろばんば」の中で蔵の中で過ごした祖母のような感じだったと思われる。 後年このちいばあさまは人吉で温泉を営む妹一家に世話になっていた。 かなりのお婆さんになっていたが、秘蔵子の母のこどもたちの私たちを可愛がってくれた。 「ちいばさま、ちいばあさま」と良寛様のようになついて遊んでもらった記憶がある。 何時までも子どものような人だった。 母は父親の元気な間は本家の総領娘とあって、特別に皆から大事にされ、近所の人からも 「しなえさま(幼名)」とよばれ、ちやほやされ、ちいばあさまに甘やかされて、わがまま一杯の幼年期を過ごした。 そして叔父や叔母から落ちぶれる前の代々の祖先の話を始終きかされて気位の高い子に育った。 しかし、そのことは後年の 「どんなに貧しくとも、自分を高く持ち、胸をはって生きる」 という母の信条に繋がっているようだ。 その頃の母の写真を見ると、カッと目を見開き勝気そうな美少女である。 その3 につづく ・・ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2009年04月03日 14時25分14秒
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